サーラの冒険 Extra 死者の村の少女 山本 弘 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 :ルビ (例)名もなき狂気《きょうき》の神 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)それとも|風の精霊《シルフ》さんかしら? [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] -------------------------------------------------------   目 次  時の果《は》てまでこの歌を  リゼットの冒険《ぼうけん》  死者の村の少女   あとがき   キャラクター・データ [#改ページ]   時の果《は》てまでこの歌を  若き歌姫《うたひめ》アルシャナは、今日も愛の歌を歌う。  彼女は呪歌《じゅか》の濫用《らんよう》を好まない。いくつか呪歌は知っているが、「治癒《ヒーリング》」「望郷心《ノスタルジィ》」「鎮魂歌《レクイエム》」など、平和的なものばかりで、それも必要がないかぎり歌うことはない。聞いた者を強制的に踊《おど》らせる「舞踊《ダンス》」や、ガラスや陶器《とうき》を砕《くだ》く「震動《ビブラート》」などは、暴力的だと感じていた。  なぜそんなことにこだわるのか、と訊《たず》ねられ、アルシャナは微笑《ほほえ》んで答えた。歌を武器に使うべきではありません。歌は人の心をなごませ、力づけ、癒《いや》すもの。誰《だれ》かを傷つけるものであってはならないはずです。  その言葉を聞いて、グラスランナーの吟遊詩人《ぎんゆうしじん》が異議を唱《とな》えた。彼は経験豊富な冒険者《ばうけんしゃ》で、怪物《かいぶつ》との戦いでよく呪歌を使っている。ろくに力もなく、魔法《まほう》も修得できないグラスランナーにとって、呪歌はまさに心強い武器なのだ。  彼は言った。歌は人の心をなごませ、力づけ、癒すというが、それなら呪歌とどう違《ちが》うんだ。「平和《ピ−ス》」の呪歌は闘争心《とうそうしん》を失わせ、「士気《モラル》」の呪歌は勇気づけ、「精神力回復《レストア・メンタルパワー》」の呪歌は心の疲《つか》れを癒す。同じじゃないか。だったら、効果があるかどうか分からないただの歌より、古代王国期の魔術師たちが創《つく》った呪歌の方が、ずっと役に立つはずだ。  それは違います、とアルシャナは答えた。私は魔法で人を助けたいのではありません。歌で人を助けたいのです。  どう違うんだ、とグラスランナーは食ってかかった。目的が同じなら、効果がある方がいいに決まってる。  違います。アルシャナは穏《おだ》やかな口調で、しかし断固として言った。魔法で人の心を強制的に操《あやつ》るのは、歌の本質とは関係ないはず。歌は、そこにこめられた心によって、聴く者の心を揺《ゆ》り動かすものです。私は歌の力を信じています。  歌の力、などという青臭《あおくさ》い言葉に、汚《けが》れた世の中を長く見てきたグラスランナーは苦笑した。俺は呪歌を使って仲間を何度も助けてきた。あんたはその「歌の力」とやらで、いったい何人の人を救ったんだ。  分かりません。アルシャナは素直《すなお》にそう認めた。私の歌を聴いた人が、何を感じ、何を想《おも》うのか、私には分かりません。もしかしたら、何も感じないかもしれません。  でも。  それでも、私の歌を耳にした誰かが、何かを感じてくれたなら——たとえそれが目に見えないほど些細《ささい》な影響《えいきょう》であったとしても、その人の人生をわずかにいい方向へと変える手助けになると、私は信じています。  だから私は歌います。愛の美しさ、生きることの素晴《すば》らしさを歌います。誰かをはげますために。誰かを癒すために。私のありったけの心をこめて。  私にできることはただ、歌うことだけなのですから。  新王国|暦《れき》五二二年は混乱のうちに暮れようとしていた。  悪いことがずいぶん起きた年だった。来年は平穏《へいおん》な年であって欲《ほ》しい——多くの人々と同様、アルド・シータもそう願っていた。オーガのようなごつい体格で、数えきれないほどの修羅場《しゅらば》をくぐり抜《ね》けてきた彼も、家庭に戻《もど》れば良き夫であり、父である。世が平穏であることを望むのは当然だった。  だが、今年もあと数日で終わるという夜、「岩の街」ザーンの地下深くにある盗賊《とうぞく》ギルドの奥《おく》の院に呼び出されたアルドは、そのささやかな願いを打ち砕かれ、暗澹《あんたん》たる気分になった。ギルドマスターからある重要な書類を見せられたからだ。ここに書かれていることが現実になるなら、来年はひどく慌《あわ》ただしく、暗い年になりそうだった。いや、下手《へた》をすれば、ザーンの歴史の最大の汚点《おてん》となる年にもなりかねない。 「どうだ、感想は?」  盗賊ギルドのギルドマスター、「虎《とら》の涙《なみだ》」ダルシュは、書類|越《ご》しにアルドの顔をうかがい、不敵な笑《え》みを浮《う》かべた。来年で六〇歳《さい》になるこの老人は、この国の盗賊ギルドを三〇年近くも支配してきた。ザーンの影《かげ》の権力者だ。「虎の涙」という二つ名の通り、二つの異なる顔を持つ。実利面ではきわめて冷酷《れいこく》で、時として猛獣《もうじゅう》にも似た残忍《ざんにん》さを発揮《はっき》する。一方、配下の者たちに対する人情は厚く、多くの者から慕《した》われている。  今、アルド・シータは禁断の秘密書類を読み進みながら、ダルシュの「虎」の面をまざまざと見る想いがした。わずか十数枚の草案にすぎない。だが、その内容は充分《じゅうぶん》に詳細《しょうさい》で、きわめて現実的、しかも衝撃《しょうげき》的だった。  どうすればザーンを支配できるか。  それはたいして難《むずか》しいことではない。すでにこの国の政治経済の奥深くまで、盗賊ギルドは食いこんでいる。貴族、騎士、政治家から、街の小さな酒場の店主にいたるまで、多くの人間が様々《さまざま》な形で盗賊ギルドの恩恵《おんけい》を受けており、ギルドを信頼《しんらい》しているのだ。石工ギルド、商業ギルド、運輸ギルドとも密接な関係があるし、諜報員《ちょうほういん》が収集した他国の軍事情報を流していることで、軍とも折り合いがいい。盗賊ギルドの支えなしでは、もはやザーンという国は成り立たなくなっている。  一方、ザーンの王室は昔から国民に人気がない。特に現在の国王ギャスク五世は、口先だけの平和主義を唱《とな》える、花いじりの好きな無能な男だ。彼のことを良く言う者はほとんどいない。家臣や騎士たちにまで陰口《かげぐち》を叩《たた》かれている有様《ありさま》だ。  不当な税を徴収《ちょうしゅう》するばかりで、国民の役に立たない「国家」という存在。少数の権力者のみが肥《こ》え太る醜《みにく》いシステム——それを解体し、盗賊ギルドを中心に民営化しようという大胆《だいたん》なプランなのだ。  それは決して荒唐《こうとう》無稽《むけい》な案とは言えない。げんに隣国《りんごく》ドレックノールという先例があるではないか。  草案の作成者は、ドレックノールの盗賊ギルドが国家を乗っ取っていった過程を研究し、それをモデルに改革の構想を練《ね》っていた。具体的には、盗賊ギルドに好意的な人物、ギルドのために動いてくれる人物を数名、影から援助《えんじょ》して、軍や宮廷《きゅうてい》内の高い地位に押《お》し上げる。石工ギルド、商業ギルドなどにも根回しを行ない、機構の改革を進める。国家が解体されれば、それを維持《いじ》するための高い税を納める必要がなくなる。それを知れば、商人の多くは喜んで協力するはずだ。  もちろん、多少の血が流れるのは避《さ》けられない。改革に反対する者も少なくないはずだ。計画の重大な妨《さまた》げになりそうな人物は、事前に「排除《はいじょ》」しなければならない——書類の最後には、「排除」すべき人物の名前までリストアップされていた。  計画の完了《かんりょう》までには二年弱、と見積もられていた。対外的|影響《えいきょう》を考慮《こうりょ》し、王家は最終的には存続させる方針だが、彼らを食わせるための予算は大幅《おおはば》に縮小《しゅくしょう》される。もはや国王には実質的権力もなく、法律を認証《にんしょう》したり、外国に親善訪問したりするだけの形骸《けいがい》化した存在となるだろう。  盗賊ギルドがザーンのすべてを決定し、運営するのだ。  アルドは複雑な表情で顔を上げた。「もし、こんな資料が外部に洩《も》れたら……」 「ああ、そんな心配は要《い》らん」ダルシュは笑って手を振《ふ》った。「その草案は一部しかない。写しは存在しない。口の固い数名の部下に命じて作成させた。今はまだ検討の段階だ。年明け早々、ギルドの極秘《ごくひ》会議にかけるつもりだが、その前に、信頼《しんらい》できる少数の者にだけ読ませ、意見を聴いているのだ」 「それほど私を信頼してくださっていると?」  アルドは書類を老人の手に返しながら、彼を上目|遣《づか》いに見つめた。その口調にこめられた皮肉な響《ひび》きを、ダルシュは無視した。 「もちろんだとも。お前とは長い仲だからな。決して裏切ったりしないことはよく知っている」  アルドもそれは認めざるを得なかった。二〇年前、ダルシュはまだヒヨッコだった彼を拾《ひろ》い上げてくれたのだ。目をかけてくれた恩に報《むく》いようと、アルドは盗賊ギルドのために全力を尽《つ》くして働いてきた。ダルシュの命令で危険な任務に就《つ》いたことや、汚《きたな》い仕事に手を染めたことも何度もある。現在では一線を退《しりぞ》き、教育係として、若い盗威たちの育成に当たっている。 「無論、ご恩は感じています」アルドは素直《すなお》に言った。「しかし、その恩義と、この計画を支持するかどうかは、別問題です」  ダルシュはにやりと笑い、アルドに意見を求めたことは正解だ、と思った。アルドは率直《そっちょく》な男で、決して口先だけのお世辞《せじ》など言わない。歯の浮くような褒《ほ》め言葉ばかり聴いていては、目先が曇《くも》ってしまう。こういう男の意見にこそ耳を傾《かたむ》けるべきなのだ。 「ほう? では、この計画に異を唱える、どんな根拠《こんきょ》がお前にあるというのだ?」  アルドはしばらく考え、自分の心理を表現するのに適した言葉を探した。 「強いて言うなら……�嫌悪《けんお》�ですな」 「嫌悪?」 「そうです。私は今でもドレックノールに対する恨《うら》みを忘れていません」 「バルティスの件か?」 「はい」  バルティスはアルドの親友だった。彼はザーン盗賊ギルド一の腕利《うでき》きで、多くの功績《こうせき》を残した。彼を知る者は一様に彼を尊敬し、「英雄《えいゆう》」とまで呼んだ。ダルシュも彼を自分の後継者《こうけいしゃ》にと考えていた。  そのバルティスも、今はいない。ザーン内部にひそかに張りめぐらされたドレックノールの情報|網《もう》を粉砕《ふんさい》したため、ドレックノールの工作員たちの恨《うら》みを買い、卑劣《ひれつ》な手段で誘《さそ》い出され、惨殺《ざんさつ》されたのだ。四年前のことである。  今、アルドは残されたバルティスの未亡人と結婚《けっこん》し、遺児《いじ》のデルを育てている。 「わしも同じだとも」ダルシュは暗い表情でうなずいた。「バルティスはわしにとっても息子《むすこ》同然だった——」 「でしたら、私の嫌悪の理由はお分かりでしょう? あなたはザーンを第二のドレックノールにしようとしている——」 「いや、それは違《ちが》うぞ」ダルシュはさえぎった。「まったく逆だ。わしはザーンをドレックノールのようにはしたくない。断じてだ」 「だったら——」 「まあ聞け。わしがこの計画を急ぐのは、ドレックノールの脅威《きょうい》が迫《せま》っているからだ。ジェノアはまだこの国に対して汚い干渉《かんしょう》をやめていない。先日も、あんな事件があったばかりではないか」  アルドはさすがに口をつぐまざるを得なくなった。  あんな事件——それは、ドレックノール盗賊《とうぞく》ギルドの幹部「闇《やみ》の王子」ジェノアが、こともあろうに、アルドの義理の娘《むすめ》デルをひそかに誘惑《ゆうわく》し、暗黒神ファラリスに入信させようとしたことだ。ジェノアは、バルティスの血を引くデルが、いずれはザーン盗賊ギルドを牛耳《ぎゅうじ》るほどの大物になると予想していたようだ。彼女を子供のうちから手先にして、ザーンを裏から支配しようという計画だったのだ。  幸い、その計画は未然に防がれたのだが、ジェノアが自分の身内にまで魔手《ましゅ》を伸ばしていたことを知り、アルドはさすがに動揺《どうよう》を隠《かく》せなかった。 「分かるだろう? この国を奪《うば》い取ろうと、てぐすね引いている連中がいる。わしはザーンをドレックノールから守りたい。いや、他のどの国からもだ。だからこそ、ザーンを今よりずっと強い国にする必要がある。今のザーンは、西部諸国の中で最も国力が劣《おと》っている。小国だ、三等国だと、他国から馬鹿《ばか》にされている。それもこれも、今の王家や権力者どもが腑抜《ふぬ》け揃《ぞろ》いのせいだ。しかし、この——」  彼は、ぱしっと書類を指で叩《たた》いた。 「——計画が実現すれば、ザーンは生まれ変わる。盗賊ギルドの支配下で、経済は活力を増し、豊かになるだろう。国民の多くがギルドに加入するようになれば、国民の結束《けっそく》は固まり、他国につけ入らせる隙《すき》を与《あた》えない。ザーンは安泰《あんたい》となり、国民は今よりいっそうの平和と繁栄《はんえい》を享受《きょうじゅ》できるというわけだ」  そう断言するダルシュの表情は自信満々だった。  アルドはこの老人の真意を測《はか》りかねていた。本気で言っているのだろうか? 知恵者《ちえしゃ》として知られた「虎の涙」ダルシュも、もしかして老齢《ろうれい》のために頭が鈍《にぶ》り、大局が見えなくなっているのではないだろうか? だとしたら、ひどく危険なことだ。 「理想的に進めば、そうなるでしょう」アルドは慎重《しんちょう》に言葉を選んで言った。「しかし、物事はなかなか理想的には進まぬものです」 「計画に何か問題があるというのか?」 「問題があるとしたら、計画そのものでしょうな。あなたの信じるような理想国家が誕生するとは、私には信じられません」 「なぜだ? 今の腐《くさ》った体制の方がいいと言うのか?」 「今のザーン王家が穀潰《ごくつぶ》しである点は、私も同感です。しかし、少なくとも盗賊ギルドが肥大《ひだい》化する歯止めになっているのは事実です。今の体制を廃《はい》し、盗賊ギルドが新たな政府になれば、もはや歯止めはなくなります。大きすぎる権力は常に腐敗《ふはい》する。新たに誕生するザーンは、ドレックノールと同じ道を歩むかもしれません」 「そんなことにはならん」ダルシュは力強い口調で一言った。「わしはドルコンやジェノアとは違う。自《みずか》らの権力欲のために行動するのではない。真にザーンのためを思って、この計画を立てたのだ」  その点に関しては、アルドにも疑いはなかった。実際、ダルシュの下で、盗賊ギルドは多くの改革を行ない、非人道的性格を薄《うす》めてきた。今のように盗賊ギルドが国民から広い支持を得るようになったのは、ダルシュの功績《こうせき》が大きい。  しかし、盗賊ギルドというものの基本的性格からして、その闇《やみ》の面——窃盗《せっとう》、恐喝《きょうかつ》、暗殺など——を完全に切り捨《す》てるのは不可能である。アルドが危惧《きぐ》を抱《いだ》いているのは、まさにその点だった。 「あなたはそうかもしれません。あなたが今の地位にある間は——しかし、失礼ですが、あなたもそんなに長くギルドマスターの地位にはとどまれぬはず。一〇年、あるいは二〇年後、あなたの後継者が腐敗しないと、どうして断言できます?」 「そんなことは断言できんよ」ダルシュは苦笑《くしょう》した。「そんな未来のことは、誰にも断言できん」 「それなら——」 「だが、未来が分からぬからといって、それを恐《おそ》れてどうする? それでは進歩がないではないか。人間は未来を恐れることなく、進み続けてきた。常により良い状態を模索《もさく》し、改革を続けてきた。だからこそ、今のこの文明があるのではないか? なるほど、失敗もたくさんあっただろう。だが、人間が失敗を恐れて何もしなかったなら、未《いま》だ蛮族《ばんぞく》のまま、貧《まず》しくみじめな暮らしをしていたのではないか?」  ダルシュはひと息つき、背後の壁《かべ》に掲《かか》げられた大きなタペストリーを見上げた。フォーセリアの歴史を図案化したものである。上の端《はし》には始原の巨人《きょじん》の死と神々の誕生が描《えが》かれている。その下には、世界の創造、神々の戦争、暗黒の時代、古代王国の誕生と滅亡《めつぼう》などが、多彩《たさい》な糸で綴《つづ》られている。下の端には現在の人間の暮らしが描かれていた。 「わしも同じだ——わしもずっと進み続けてきた。この四〇年間、ずっとだ。立ち止まりはしなかった。後ろを振《ふ》り返りもしなかった。そんなことをしても何もならない。ただ前に進むことだけを考えて生きてきた……」  彼は振り返り、アルドを見つめた。 「これからも同じだ。わしは死ぬまで前進をやめるつもりはない。正しいと信じることを実行し続ける。それがわしの信念だからな」  ダルシュは断言した。その口調には鉄のように強い意志がこめられており、老齢など微塵《みじん》も感じさせなかった。 「では、私があくまでその計画に反対したら、どうなさるのです?」 「何度でも話し合おう。お前が納得《なっとく》し、賛同してくれるまでな」  アルドは大きく息を吐《は》き、肩《かた》を落とした。これ以上、話し合っても無駄《むだ》なようだ。ダルシュは計画の実行をすでに決意している。彼が求めていたのは修正意見であって、真っ向からの反論ではないらしい。 「あなたに信念があるのと同様、私にも信念があります」  そう言うと、アルドは席を立った。 「もし、どうしても計画を実行されるのなら——その『排除《はいじょ》』すべき人物のリストの末尾《まつび》に、私も加えていただきましょうか」  部屋を去ってゆくアルドの背中を、ダルシュは笑顔《えがお》で見送った。アルドの最後の言葉、彼はきつい冗談《じょうだん》と受け取っていた。  自分が決定した以上、アルドがそれに従わぬはずはない。彼はそう信じていた。奴《やつ》はずっと、わしの忠実な部下だったのだから。  一二月三〇日——  フォーセリアの神話によれば、この日は始原の巨人が死んだ日とされている。  宇宙には最初、たった一人の巨人しかいなかった。大地もなく、生命もなく、神々さえもいなかった。巨人は無限の力を持ちながら、決して癒《いや》されることのない孤独《こどく》に苦しみ、永遠の時を生き続けた。  そしてついに巨人が力|尽《つ》きて倒《たお》れた日、その死体は大地となり、最後に吐いた息が風となり、流れ出た血が海となった。  それが一二月三〇日、大晦日《おおみそか》の夜である。  翌朝、巨人の死体から神々が誕生した。賢《かしこ》き頭からは知識の神ラーダが、大いなる胴体《どうたい》からは大地|母神《ぼしん》マーファが、素早《すばや》き左足からは幸運の神チャ=ザが、猛《たけ》き右足からは戦神マイリーが、聖なる左手からは至高《しこう》神ファリスが、邪悪《じゃあく》な右手からは暗黒神ファラリスが——そして他の小部分からは、何百という弱小の神々が。  巨人を覆《おお》っていた鱗《うろこ》からは竜《りゅう》どもが誕生し、黄金の体毛からは古代樹が生まれ出た。古代樹の実からは多くの生命が誕生した。生命は繁栄《はんえい》し、大地に広がっていった。それが世界の始まりであった。  そんな由来《ゆらい》があるので、アレクラスト大陸各地、特に西部諸国では、大晦日の夜はみんなで集まって賑《にぎ》やかに過ごすのが習《なら》わしとなっている。始原の巨人の死を悼《いた》み、神々の誕生を祝うのである。  人々は飲み、食い、歌い、語らい、騒《さわ》ぎ、一夜を過ごす。この日ばかりは、子供たちも深夜まで起きていることが許される。夫婦《ふうふ》が、恋人《こいびと》が、親子が、親友が、陽気に楽しんで一年の憂《う》さを晴らし、新たな一年に希望を託《たく》す。  この日に孤独なのは、とても悲しい。  ダルシュはそんな孤独な者の一人だった。  彼には家族はいない。親兄弟は子供の頃《ころ》に亡《な》くしているし、結婚《けっこん》もしたことがない。恋人と呼べる女は何人かいたが、みんな別れてしまった。友人と呼べる男は何人かいたが、みんな先に死んでしまった。  彼を慕《した》う部下たちの中には、いっしょに大晦日を祝わないかと誘《さそ》ってくれる者もいる。ダルシュはそうした申し出を嬉《うれ》しく思いつつも、いつも丁重《ていちょう》に拒絶《きょぜつ》してきた。大晦日は気の置けない者たちが集まって気楽に過ごすもの。自分のような偉い人間がいては堅苦《かたくる》しくなって、思う存分楽しめないだろう——彼はそう理由を説明する。  それは嘘《うそ》だった。彼が大晦日を誰とも過ごさないのは、自分が孤独であることを思い知らされるからだ。  もうずいぶん前から、ダルシュは若い者たちの輪に加わることをあきらめていた。もともと、はめをはずすということができない性格なのだ。酔《よ》っ払《ぱら》うほど酒は飲まないし、歌も苦手《にがて》で、堅苦しい話題しか知らない。歌や踊《おど》りや冗談で若い者たちが乱痴気《らんちき》騒ぎを演じている中、自分だけが雰囲気《ふんいき》に溶《と》けこめず、黙々と酒を飲んでいるのは、どうにも居心地《いごこち》が悪かった。自分以外の誰もが、家族や友人や恋人と親しくしているのを見せつけられるのは、一人でいる以上にみじめなことだった。  だからダルシュは、どんな誘いも断わり、一人で大晦日を過ごすことにしている。十数年前に最後の友を亡くして以来、ずっと。  しかし、自室にこもりきりで新年を迎《むか》えるのも、これまた味気なく、気が滅入《めい》るものである。時の流れの無情さをしみじみと感じ、また一歩、墓穴に近づいたように感じるのだ。酒や読書では気はまぎれない。  そこで彼は、何年か前から、大晦日の夜はひそかに外出することにしていた。特に目的があるわけではない。陽気に浮《う》かれ騒ぐ街をぶらつきながら、もの想《おも》いにふけるのだ。無論、孤独であることに変わりはない。だが、宴《うたげ》の主賓《しゅひん》として鎮座《ちんざ》させられ、部下たちが浮かれ騒ぐのを空《むな》しく眺《なが》めながら、苦痛に満ちた長い時間を過ごすのに比べれば、一人で歩き回っている方がずっと気楽でいい。  外出の際には、念のために行商人に変装して、「虎の涙」ダルシュだと分からないようにしていた。ドレックノールの刺客《しかく》に対する用心もあるのだが、むしろ顔見知りに出会うことを恐《おそ》れていた。大晦日だというのに、一人で目的もなしにぶらついていることを知られるのは、ひどく気まずい。  鏡を覗《のぞ》きこみ、付け髭《ひげ》が完璧《かんぺき》であることを確認《かくにん》すると、ダルシュは自室を後にして、歌声のあふれる通路へと足を踏《ふ》み出した。 「岩の街」ザーンは、その名の通り、草原にそそり立つ巨大《きょだい》な岩山をくり抜《ぬ》いて建設された半地下都市である。古代王国末期にはオパールの鉱山だったのだが、とっくに掘《ほ》り尽《つ》くされ、不要になった坑道《こうどう》の跡《あと》に、今では四五〇〇人もの市民が暮らしているのだ。岩の中とはいえ、通路や部屋はどこもきちんと直線状にくり抜かれているので、洞窟《どうくつ》という感じはしない。照明や通風の工夫《くふう》はもちろん、上下水道も完備していて、都市としての機能は充実《じゅうじつ》しており、生活水準は高い。  時代とともに着実な拡張を続けてきた通路|網《もう》は、今では蟻《あり》の巣《す》のように岩山全体に広がっており、複雑で立体的な網《あみ》の目を構成している。だから他のどんな都市よりも音がよく響《ひび》く。  大晦日の夜、ザーンの通路という通路に歌声が響き渡《わた》る。甘《あま》い恋歌、勇壮《ゆうそう》な軍歌、陽気な民謡《みんよう》、下品な戯《ざ》れ歌——街じゅうで繰《く》り広げられている何百という宴席《えんせぎ》から洩《も》れ出した歌という歌が、ぶつかり合い、混ざり合い、通路はどこも陽気な騒音《そうおん》で満たされる。岩山全体が大きな楽器となる。あらゆるリズム、あらゆる音程の音が重なり合い、うおーんという蜂《はち》の羽音のような唸《うな》りとなって大気を震《ふる》わせる。遠く地平線の向こうにいる者でさえ、ザーンが発する潮騒《しおさい》のような音を耳にするという。  真夜中が過ぎると、吟遊詩人《ぎんゆうしじん》たちは「鎮魂歌《レクイエム》」の呪歌《じゅか》を歌いだす。それは始原の巨人の死を悼む歌であると同時に、街のあちこちにひそんでいるかもしれない悪霊《あくりょう》を祓《はら》う効果もある。心地よく新年を迎えるために必要な行事なのだ。  だが、まだその時刻ではない。ザーンの通路を満たしているのは、陽気で賑《にぎ》やかな歌ばかりだった。  通路を行き交《か》う者の数も、いつもの夜より何倍も多い。ぶつかってくる酔っ払いや、客を引く女、一曲いかがですかとすり寄ってくる吟遊詩人、あなたに神のお恵《めぐ》みをと布教に余念のないファリスの司祭……。  人の流れに逆らわずにぶらぶらと歩きながら、ダルシュはいくつかの歌を聴《き》くともなしに耳にして、無害で低俗《ていぞく》で単純な歌詞の数々に苦笑していた。歌というやつには昔から興味がない。愛の美しさだの、戦いの勇壮さだの、生きることの素晴らしさだの——なぜ人は、こんなくだらないものに夢中になるのだろう?  だが同時に、彼はささやかな満足感も味わっていた。人々が陽気に騒ぎ、くだらない歌にうつつを抜かす余裕《よゆう》があるのも、街が平和である証拠《しょうこ》だ。そして、この街の秩序《ちつじょ》は盗賊ギルドによって保たれている。自分がザーンのために何十年も尽力《じんりょく》し、貢献《こうけん》してきたからこそ、この平和があるのだ。金ピカの報酬《ほうしゅう》も、歯の浮《う》くような賞賛の言葉も、ダルシュは期待していなかった。大晦日《おおみそか》の夜、通路を満たす陽気な歌声——それがあるだけで、彼は充分《じゅうぶん》、満ち足りているのだ。  この平和を、繁栄《はんえい》を、壊《こわ》すわけにはいかない。あの計画を実行に移し、ザーンを今よりずっと強い国にしなければならない——彼はあらためて自分にそう言い聞かせた。  ふと、ダルシュはひとつの歌声に注意を惹《ひ》かれた。  澄《す》んだ女の声の独唱だった。ゆるやかなテンポで、叫《さけ》ぶでもなく、強く訴えるでもなく、穏《おだ》やかに、しかし一心に、歌い続けていた。通路を満たす騒音の中でも、その声は明瞭《めいりょう》に聴き分けられた。怒喝《どな》り散らすような乱暴な歌や、騒々《そうぞう》しい合唱が多い中、上品で静かな女の歌声は、かえって新鮮《しんせん》に感じられた。 [#ここから1字下げ] あなたは忘れてしまったのかしら それともあれは夢なのかしら あの夜 月の下 私を抱《だ》いて 放しはしないと 誓《ちか》った言葉 あなたは死んでしまったのかしら それとも幻《まぼろし》だったのかしら あの朝 風の中 くちづけをして 帰ってくると 誓った言葉…… [#ここで字下げ終わり]  誰が歌っているのだろう。素朴《そぼく》な疑問を覚え、ダルシュの足はごく自然にその声の方に向いていた。どのみち、今夜はどこに行くというあてがあるわけでもない。くだらない歌に耳を傾《かたむ》けてみるのも一興だ。  少し歩いただけで、その場所にたどり着いた。倉庫のように素《そ》っ気《け》ない木の扉《とびら》は、今夜は開けっ放しになっている。そこに掲《かか》げられたプレートに刻《きざ》まれた名を見るまでもなかった。その店のことは昔からよく知っていたからだ。  ダルシュは懐《なつ》かしさに目を細めた。 <月の坂道> ——一世紀近い歴史のある冒険者《ぼうけんしゃ》の店である。かつてダルシュが希望に燃える青年で、偉大《いだい》な人物になることを夢見てザーンにやって来たばかりの頃、短期間ではあるが、ここに滞在《たいざい》したことがある。  そう、すべてはここからはじまったのだ。  店内には客が多かったが、入れないほどではない。ダルシュは目立たないようにそっと足を踏み入れた。客たちは歌姫《うたひめ》の歌に黙《だま》って耳を傾けており、ささやき声ひとつしない。店に入ってきたみすぼらしい行商人に注意を払《はら》う者は誰もいなかった。  ここに来るのは何年ぶりだろうか。ダルシュは店内を見回しながら、胸が懐かしさで熱くなるのを感じた。何度か改装はされているものの、あまり印象は変わっていない。薄汚《うすよご》れた壁《かべ》も、酒場の中央にあるカウンターのU字形の形状もそのままだ。天井に染《し》みついた煤《すす》がだいぶ濃《こ》くなったり、テーブルの配置が変わったり、ランタンのガラスが色の薄いものになったり、といった程度である。奥《おく》の厨房《ちゅうぼう》から漂《ただよ》ってくる料理の匂《にお》いまで昔のままで、ダルシュは嬉《うれ》しくなってしまった。  店は二階まで吹《ふ》き抜けになっており、一階が酒場、二階が宿屋になっている。回廊《かいろう》が酒場を見下ろす形で取り巻いていて、宿泊客らしい男女が手すりに寄りかかり、店内を見下ろして歌に聴き入っていた。  テーブルは満席だったが、カウンターの端にひとつだけ空《あ》いた席を見つけた。腰を落ち着けると、銀貨を差し出し、小声でワインを注文する。バーテンは無言でうなずくと、空《から》のカップに静かに潜を注《つ》いだ。昔のバーテンはもうずいぶん前に死んでしまっている。経営者も従業員も何度も替《か》わった。今のバーテンはダルシュの顔を知らない。知っていても、変装のせいで彼とは気づかなかっただろう。  カウンターの樫《かし》の板も新しくなっていた。表面はすべすべしており、真新しいニスのせいで明るいベージュ色に光っている。ごつごつしてひどい油汚れが染みこんだ昔の臭いカウンターの方が好きだったのだが、文句は言うまい。  歌姫は店内をゆっくりと歩きながら、澄んだ声で歌い続けていた。飾《かぎ》り気《け》の少ない赤系統のドレス。髪《かみ》も鮮《あぎ》やかな赤で、歌の|邪魔《じゃま》にならないように結《ゆ》い上げられている。伴奏《ばんそう》と呼べるのは一人の吟遊詩人が爪弾《つまび》くリュートだけで、彼女の外見と同様、質素だった。 [#ここから1字下げ] きっと帰ってきて あなた どんなに傷つき疲《つか》れ 無一文でも きっと帰ってきて いつの日か たとえ命が尽きても 亡霊《ぼうれい》の姿でも 輝《かがやく》く幾《いく》百の名声よりも まばゆい幾千の 財宝よりも 私が待っているのは ただあなた あなたにここにいて欲《ほ》しい…… [#ここで字下げ終わり]  近くを通り過ぎる時、ダルシュは歌姫の横顔を観察した。思っていたよりも若い。うっすらと化粧をしているが、まだ二〇代にはなっていないだろう。絶世の美女とは言えないが、かわいらしい部類だった。まるで誰かを連想させる……。  誰をだ?  ダルシュは苛立《いらだ》った。職業|柄《がら》、記憶力《きおくりょく》には自信がある。だが、なぜかその歌姫が誰に似ているのか、思い出せないのだ。歯の隙間《すきま》に何かがはさまっているような感じで、ちょっと気分が悪かった。  やれやれ、わしも脳の老化がはじまったか——彼はワインをすすりながら、心の中で苦笑した。  それにしても、この歌詞はどうにかならないものか。  彼には歌のことはよく分からない。だが、この歌姫の声が美しいことぐらいは理解できた。メロディも静かでいい。いつもは騒々《そうぞう》しい客たちが、しんと聴《き》き入っているのも、歌に感動しているからだろう——そう、きっと「いい歌」なのに違《ちが》いない。  だが、その歌詞はというと、ありきたりの甘《あま》ったるい恋歌《こいうた》だった。帰ってこない恋人を待ち続ける女の歌だ。必ず出世《しゅっせ》すると約束し、男は村を旅立っていった。怪物《かいぶつ》を殺し、悪人を倒《たお》し、財宝を見つけ、英碓《えいゆう》になって帰ってくると。しかし、いつまで待っても男は帰ってこない。女は願う。出世なんてしなくていい、英雄にならなくてもかまわない。私はただ、あなたにここにいて欲しい……。 [#ここから1字下げ] 私は忘れない この愛を たとえあなたが忘れても 死んでしまっても 私は信じてる 思い出を たとえすべてが夢でも 幻でも 私は待っている あなたを どんなに変わり果てても ただあなただけを 私は待っている いつまでも たとえ命が尽きても 墓の下でずっと…… [#ここで字下げ終わり]  ありふれた歌だ——そのはずなのだが。  何かがダルシュの心の中で騒《きわ》いだ。その歌には、妙《みょう》に不安を生むものがある。まるで胸の奥深く突《つ》き刺《さ》さったまま忘れてしまった針のように、何かがうずくのだ。忘れてしまった何かが。  いったい何だろう。  思い出す手がかりを求めて、ダルシュは店内を見回した。本当にここは昔と変わらない。四〇年前に戻《もど》ったような気がする。  聴衆《ちょうしゅう》の中に、二人の子供がいるのに気がついた。金髪《きんぱつ》で少女のような顔立ちの少年と、黒髪で少年のように見える少女だ。同じテーブルにつき、歌姫の方を見つめてじっと聴き入っているが、二人の手がテーブルの下でこっそり握《にぎ》り合わされているのを、ダルシュは見逃《みのが》さなかった。  少女の方はよく知っている。バルティスの娘《むすめ》、今はアルドの娘のデルだ。とすれば、少年の方は噂《うわさ》のサーラ・パルだろう。まだほんの子供だが、彼の活躍《かつやく》でジェノアの陰謀《いんぼう》は砕《くだ》かれ、デルは救われたのだという。  アルドを通して事件の報告を受けて以来ずっと、ダルシュは少年のことを記憶の片隅《かたすみ》にとどめていた。見どころがある、と感じたからだ。本人に一度会ってみたいと思っていたのだが、草案の作成作業に忙殺《ぼうさつ》され、その機会がなかった。事件から一か月も過ぎた今夜、ようやく観察の機会に恵《めぐ》まれたわけである。  思ったよりも幼《おさな》く、ひ弱そうに見えた。だが、鍛《きた》えれば伸《の》びるだろう。それに肉体の強さはたいして関係がない。人を大物に成長させるのは、肉体ではなく、心の強さだ。前進しようとする意志だ。  いい目をしている、とダルシュは思った。純真で、前を見つめ、輝く未来を映《うつ》している。夢を見ているだけではなく、その夢を実現する強い意志も秘めている——まるで昔の自分のように。  彼は一〇代の自分を、盗賊《とうぞく》ギルドに入った直後の自分を、少年の姿の上に重ね合わせた。あの頃は希望にあふれていた。宮廷《きゅうてい》や軍などと異なり、盗賊ギルドの中では、生まれも年齢《ねんれい》も階級も意味を持たない。実力がすべての世界なのだ。実力がある者は若くても出世できる。野望に燃える若者は、そこに自分の進むべき道を見いだし、ためらうことなく飛びこんだのだ。  大物になってみせる。王様よりも偉《えら》くなってみせる。あの頃の自分の描《えが》いていた未来の夢は、今から思えば青臭《あおくさ》く、気恥《きは》ずかしく、荒唐《こうとう》無稽《むけい》だった。たいていの若者は、現実の荒波《あらなみ》に揉《も》まれれば、自分の甘さと無力さを思い知らされ、そんな子供っぽい夢はすぐに捨ててしまうものである。だが、ダルシュは違った。どんな苦しい目に遭《あ》っても、決して挫折《ざせつ》しなかった。立ち止まらず、後ろを振《ふ》り返らず、未来を信じ、鉄のように強い執念《しゅうねん》で前進を続けた。ついには、わずか十数年で、ギルドマスターという高い地位にまで昇《のぼ》りつめたのだ。夢は見事に達成されたと言っていいだろう。  では、この孤独《こどく》はいったい何なのだろう。望み通りの人生を歩んできたはずなのに、死期が近づくにつれて胸を苛《さいな》む、この空しさは。まるで何かを遠い昔に置き忘れてきたかのようだ…… [#ここから1字下げ] 私は待っている あなたを どんなに変わり果てても ただあなただけを 私は待っている いつまでも たとえ命が尽《つ》きても 墓の下でずっと 時の流れが果てても その先までも この歌が続くかぎり 永遠に…… [#ここで字下げ終わり]  唐突《とうとつ》に、ダルシュは思い当たった。忘れてなどいなかった。忘れることなどできるはずがない。ただ、忌《い》まわしい記憶を強引《ごういん》に押《お》さえつけ、思い出すのを避《さ》けていただけだ。  彼は激しい動揺《どうよう》とともに理解した。なぜ歌姫《うたひめ》のありきたりの恋歌が、これほど心を騒がせるのか。それは自分のことを歌っているからだ。女がいつまでも待ち続ける恋人とは、自分のことだからだ。  長いこと記憶の底に封《ふう》じこめていた名前が浮《う》かび上がった。その名前はこの三四年間、ずっと魂《たましい》の奥《おく》にくすぶり、彼を苛み続けてきた。  キャスリーン!  突然、誰かが彼の袖《そで》を後ろから強く引いた。彼の体はぐらりと後方に傾《かたむ》いた。ダルシュはとっさにカウンターの端《はし》につかまり、倒れそうになる体を支えた。  店が揺《ゆ》れていた。船が大波に揺られているような感じだ。おかしい。そんなに飲んではいないはずなのに……。  歌姫の声が奇妙《きみょう》に歪《ゆが》み、反響《はんきょう》し、変化した。音程が変わり、テンポが変わり、歌詞が変わり、声が変わった。それにつれて照明が揺れ、ちらつき、色を変えた。ダルシュは船酔《ふなよ》いのような不快な感覚を味わった。  ようやくその感覚が収まった時、ダルシュは自分のつかんでいるカウンターの手ざわりが変わったのに気がついた。さっきまでは平らですべすべしていたのに、今はひどくごつごつしている。色もベージュから黒に変化していた。  はっとして天井《てんじょう》を見上げる。天井の煤《すす》が薄《うす》くなっていた。ランタンのガラスも色の濃いものに変わり、店内はオレンジ色を帯びていた。  周囲を見回すと、テーブルの位置が変わり、客の数も減っていた。カウンターの中にいるのも、昔のバーテンだ——もう何十年も前に死んだはずの男だ。  歌も変わっていた。メロディも歌詞も違《ちが》う。緑の若草に覆《おお》われた丘《おか》を駆《か》け回るような、陽気で無邪気《むじゃき》な歌だった。歌っているのも、あの赤髪の歌姫ではない。白いエプロンをつけた少女が、カウンターを拭《ふ》き掃除《そうじ》しながら口ずさんでいるのだ。  鐘《かね》のように広がったスカートをひるがえした快活な少女だ。まだ一六|歳《さい》。たんぽぽ色の明るい髪は、無垢《むく》な笑顔《えがお》によく合っていた。彼女に近づくだけで春の暖かさが感じられ、髪に顔を近づければ、春の匂《にお》いが嗅《か》げる気がした。  キャスリーン。  ダルシュは茫然《ぼうぜん》とつぶやいたが、そのつぶやきは声にならなかった。  この店の近所に住んでいた娘だ。父親は石工ギルドの大物で金持ちだったが、娘を過保護にはしない方針だった。一六歳になれば実社会を体験させることも必要と、近くの店に働きに出したのだ。一日に四時間ほどで、たいした労働ではないが、稼《かせ》いだ金はすべて自分の小遣《こづか》いになる。仕事の合間に冒険者《ぼうけんしゃ》たちの冒険談を聴くのも面白《おもしろ》いので、少女はすっかりその仕事を楽しんでいた。掃除や皿洗いをしながら、よく歌を歌った。少女の明るく快活な美声は、疲《つか》れた多くの冒険者をなごませた。  四〇年も前の話だ。  ダルシュは混乱した。これはいったい何だ? 夢か? 幻影《げんえい》か?——それとも本当に過去に戻ったのか?  その時、店の扉《とびら》が開き、一人の青年がおずおずと入ってきた。 「あの……ここ、冒険者の店ですよね?」  青年は大きな荷物を背負《せお》っていた。根拠のない希望に燃えて故郷の村を出てきたばかり。有り金をはたいて買いこんだレザー・アーマーはぜんぜん似合《にあ》っておらず、こいつはヒヨッコだとひと目で分かる。店の片隅《かたすみ》にいたドワーフの戦士が、ちらっと侮蔑《ぶべつ》の視線を投げかけた。また一人、じきに挫折《ざせつ》する若造が来た、とでも思っているのだろう。  少女は歌をやめ、振り返った。 「ええ、そうよ。 <月の坂道> 」 「ああ、よかった」青年は安堵《あんど》の笑《え》みを浮かべた。「ずいぶん迷ったんですよ。この街、ややこしいから」 「そうね、ややこしいわね」少女も笑った。「疲れてるでしょ? 何か飲む?」  少女の笑顔を見て元気を取り戻し、青年はぴんと背筋を伸《の》ばした。 「そうですね、ジュースでもあれば」  青年はそう言いながら、荷物を下ろし、空《あ》いている席のひとつに腰掛《こしか》けた。まもなく、盆《ぼん》を持った少女がやって来て、オレンジの絞《しぼ》り汁《じる》の入ったカップを差し出した。受け取る時、青年の指が少女の指にかすかに触《ふ》れた。 「ありがとう」  そう言って、爽《さわ》やかな微笑みを投げかける青年。少女は頬《ほお》を染めた。  その光景を眺《なが》めていたダルシュは、愕然《がくぜん》となった。その青年が何者なのか、ようやく気がついたからだ。まだ「虎《とら》の涙《なみだ》」と呼ばれるずっと前、ザーンに来たばかりの一九歳の自分だ。  これは……四〇年前、キャスリーンと初めて出会った場面ではないか!  また誰かが袖を引き、ダルシュの体が傾いた。あの不快感が襲《おそ》ってきた。世界がゆらぎ、歪み、暗くなった。ランタンが白く輝《かがや》き、膨張《ぼうちょう》した。  世界が再び安定した時、それはもうランタンではなかった。梢《こずえ》の向こうの夜空にかかっている美しい満月だ。場所もすでに <月の坂道> の中ではない。どこか夜の森らしく、ちいちいと虫の声がしていた。  目の前には、まだ若き日の自分とキャスリーンがいた。森の中の小道で、二人は向かい合い、見つめ合っていた。その瞳《ひとみ》には愛が宿っていた。  ダルシュはすぐに気がついた。ここはザーンの外にある森の中だ。あれから一年半が過ぎ、自分は二〇歳、キャスリーンは一八歳になっている。  梢から降り注《そそ》ぐ淡《あわ》い月光の下で、二人の姿が重なり、くちづけをするのを、ダルシュは茫然《ぼうぜん》と見守っていた。老いたダルシュがすぐ近くに立っているというのに、二人とも気配《けはい》に気づく様子はなく、自分たちだけの世界に没頭《ぼっとう》している。思い出してみても、あの時、近くに老人がいたという記憶《きおく》はない。  二人には自分の姿が見えていないのだ、とダルシュは気づいた。ということは、二人は亡霊《ぼうれい》のような存在なのだろうか——それとも自分の方が亡霊なのか? 「これを……」  長いくちづけが終わると、若者は懐《ふところ》の中から小さな包みを取り出し、娘《むすめ》に手渡《てわた》した。 「何なの……?」 「開けてごらん」  キャスリーンは恐《おそ》る恐る包みを開いた。中から出てきたものを見て、はっと息を呑《の》む。それは銀でできた羽根の形の髪飾《かみかざ》りだ。 「この前、ギルド仲間と遺跡《いせき》の探索《たんさく》で見つけたんだ」青年は説明した。「他にもいくつか、ちょっとした財宝があったんだけど、僕はこれを分け前に貰《もら》った」 「私に……これを?」 「ああ、君の髪に似合うと思ってね」  歯の浮《う》くような恥ずかしい言葉だったが、青年は真剣だったし、娘も笑わなかった。 「ありがとう……」 「おいおい、泣くこたないだろう」  娘の頬に光る涙に気がついて、青年は狼狽《ろうばい》した。指でそっと涙をぬぐってやる。 「まったく、女ってのはしょうがないなあ」 「だって……」  娘は髪飾りを握《にぎ》りしめ、青年の胸に寄りかかり、不安そうにつぶやいた。 「だって、こわいぐらいだもの。こんなに幸せでいいのかしらって……」 「この程度で幸せ? まだまだ、こんなもんじゃないさ!」  青年はそう言うと、彼女を力強く抱《だ》きしめた。 「もっともっと幸せにしてやるぞ。金を稼《かせ》いで、名を上げて、出世してやる。盗賊《とうぞく》ギルドの幹部になるんだ。僕が大物になれば、君の親父《おやじ》さんだって結婚《けっこん》に反対しないさ。あと何年か待っていてくれ。地位が上がれば収入も増える。君にとびきり贅沢《ぜいたく》な暮らしをさせてやる……」  彼女はささやいた。「いいえ、いいのよ」 「いいって、何が?」 「贅沢なんてしたくない。お金なんてなくていいの。あなたがそばにいてくれるなら、それだけでいい……」 「無欲だなあ!」青年は笑った。「世界一の大金持ちの奥《おく》さんになりたい、ぐらいのこと、言ってくれたらどうなんだ?」 「でも、あなたに無理をさせて、もしものことがあったら……」 「だいじょうぶさ。心配するなって」 「でも、本当なのよ」娘は小さくため息をついた。「私はそんな大きな幸せなんて望まない。あなたとの二人だけの暮らし——そんなちっぽけな幸せだけで満足なの」 「でも、それじゃ僕の気が済まない!」青年は瞳を輝かせ、力強く言った。「僕は君を世界一幸せな女にしてやりたいんだ。そして僕自身も、世界一の男になりたい。そのために、もっともっとがんばらなくちゃ!」  違《ちが》う! そうじゃない!  青年の言葉に異を唱《とな》えようと、衝動《しょうどう》的に飛び出しかけたダルシュだが、またも袖《そで》をつかまれ、引き戻《もど》された。  月が急に輝きを増した。強烈《きょうれつ》な光が爆発《ばくはつ》する。ダルシュはたじろぎ、目をかばって立ちすくんだ。世界が再びゆらぎ、回転した。  ようやく明るさに目が慣《な》れた時、あたりが昼間になっているのに気づいた。場所も移動している。ザーンの西側の面、垂直《すいちょく》に近い外壁《がいへき》の下だ。 「父さん! 父さん!」  キャスリーンの悲痛な声が聞こえた。彼女は布に包まれた死体にすがりつき、泣いていた。若き日の自分は何もできず、そのそばに茫然《ぼうぜん》と立ちつくしている。あの夜の森での密会から、半年が過ぎていた。  二人の周囲に人垣《ひとがき》ができていた。石工ギルドの幹部が死んだのだ、と噂《うわさ》し合っている。外壁に沿《そ》って新たな上水路を設《もう》ける工事を視察しに来て、足を滑《すべ》らせたらしい。不幸なことだ。あのベテランでもそんなことがあるのか。いい人だったのに……。  これはただの幻覚《げんかく》ではない、とダルシュは確信した。細部に至るまで、何もかもあの日と同じだ。すべて鮮明《せんめい》に覚えていた。忘れられるわけがない。自分の人生の重大な分岐《ぶんき》点になった日なのだから。  ダルシュは苦悶《くもん》した。過去は変えられない。あの日と同じように、悲惨《ひさん》な光景を前にしながら、何もすることができない。彼にできるのはただ、劇を眺《なが》めるように、若者と娘を翻弄《ほんろう》する運命を傍観《ぼうかん》することだけだった。  若き日の自分とともに、キャスリーンのそばに立ちすくみ、ダルシュは何もできない自分の無力さを噛《か》みしめていた。  またも袖を引かれ、世界が揺《ゆ》れた。太陽の光が急に翳《かげ》り、あたりが暗くなったかと思うと、そこはもう室内になっていた。  再び、若者はキャスリーンと向かい合っていた。彼女の父カールの死から九日後、彼女の自室である。 「どうしても行くの?」彼女は涙ぐんでいた。「断われないの?」 「だめなんだ」若者は苦悩《くのう》に満ちた表情でかぶりを振《ふ》った。「ギルドの指令なんだ。詳《くわ》しいことは秘密だけど、重要な任務なんだ」 「どのぐらい……?」 「さあ」若者は考えこんだ。「一年か……もっとかかるかもしれない」  娘は目を見開いた。「そんなに?」 「ああ」 「お願い、行かないで」  そう言って彼女はしがみついてきた。若者は困惑《こんわく》の表情を浮《う》かべ、苦笑《くしょう》した。 「おいおい、無茶言わないでくれよ」 「だって、お父さんがいなくなって、あなたまでいなくなったら……」 「いなくなるわけじゃない。きっと帰ってくるさ」 「でも、一年は長いわ。私、そんなに待てない。淋《さげ》しさで気が変になりそう」 「淋しいことはないだろう。君には友達がいる。親戚《しんせき》も使用人もいるじゃないか」 「でも、愛している人はあなただけだわ……」 「いいかい、キャスリーン」  若者は娘の肩《かた》に手を置き、優《やさ》しく言い聞かせた。 「これは出世のチャンスなんだ。ギルドマスターじきじきの指令なんだよ。それだけギルドマスターは僕のことを評価してくれてるんだ。まだギルドに入って二年にしかならない、若造の僕をだよ! 断わるわけにいかないじゃないか。  この任務に成功したら、僕の評価はさらに上がる。昇進《しょうしん》は間違いない。僕の夢に一歩近づくんだ。分かってくれよ」  だが、彼女はかぶりを振った。「そんなの分からない。あなたの夢なんて……」 「おい……」 「それに、その任務って危険なんでしょ? もしあなたが死んだら……」 「だいじょうぶだ。死にやしない」  そう言ったものの、若者には確信があるわけではない。具体的にどういう任務なのか、彼にもまだ知らされていないのだ。東の大国ファンに入りこみ、すでに潜入《せんにゅう》している他のメンバーと連絡《れんらく》を取って、ある重要な工作に携《たずさ》わる、というぐらいしか分からない。当然、危険を伴《ともな》う任務だと予想された。  だが、死ぬわけにはいかない。この娘のためにも、自分のためにも。 「本当に? 本当に死なない?」 「当たり前さ! 君を置いて死ぬものか。それに、やりたいことはまだ山ほどあるんだ。何年かかろうが、絶対に生きて帰ってくる。必ず君を迎《むか》えに来る。誓《ちか》うよ」  そう言うと、若者は娘にくちづけをした。 「……戻ってきたら結婚しよう。いいね?」  キャスリーンは涙をぬぐい、こくりとうなずいた。 「分かった……私も誓う。あなたを待つわ。いつまでも」  またも世界が暗転した。  そこから先、時間は小刻《こきざ》みに跳躍《ちょうやく》した。数秒、あるいは十数秒ごとに、光景がめまぐるしく変化し、ダルシュの人生の重要な節目《ふしめ》を映し出した。彼は自分の人生の軌跡《きせき》をまざまざと再体験した。  大国ファンでの任務というのは、ファンの国情、特に有力貴族同士の権力争いについて探《さぐ》るというものだった。常に東の大国の侵略《しんりゃく》の危機にさらされている西部諸国にとって、ファンの動向は重大問題であり、関心を抱《いが》くのは当然だった。ダルシュは現地に何年も前から住み着いていた諜報《ちょうほう》員と接触《せっしょく》し、広く情報を収集した。  だが、任務はそれだけで終わらなかった。ダルシュの報告を受け、貴族たちの反目《はんもく》がかなり深刻なものであることを見抜《みぬ》いたザーンのギルドマスターは、混乱をさらに助長するよう命じたのだ。ファンの国情を不安にし、あわよくば内乱に追いこもうという計画だった。そうなれば西部諸国侵略の危機は軽減されるだろう。成功する可能性は高いとは言えないが、低いコストで西部諸国の平和が守れるなら、試《ため》してみる価値はある。  ダルシュはその活動に積極的に従事した。悪意あるデマをばらまき、ある貴族の名誉《めいよ》を傷つけた。別の貴族を暗殺し、それを反対勢力のしわざに見せかけた。そうした事件はファン国内の緊張《きんちょう》を高めるのに効果的だった。  一年が過ぎ、二年が過ぎても、ダルシュは帰れなかった。任務が忙《いそが》しすぎたのだ。キャスリーンのことは気になったが、極秘《ごくひ》任務の性格上、こちらから手紙を送ることも、受け取ることもできなかった。彼女の安否《あんぴ》を知るすべはなかった。  三年と二か月が過ぎ、ようやくダルシュは帰還《きかん》を許された。すでにファンの情勢はかなり険悪なものとなっており、もはや干渉《かんしょう》する必要なしと判断されたのだ。ザーンの工作員はファンから撤退《てったい》した。  それからわずか七年後の新王国|暦《れき》四九四年、貴族同士の権力争いによる内乱と、邪竜《じゃりゅう》クリシュの襲撃《しゅうげき》によって、ファンは滅亡《めつぼう》した。  自分たちの工作にどれほど効果があったかは分からない。あるいは、ファンの滅亡は巨大《きょだい》な歴史の必然であり、自分たちのやったことにたいして意味はなかったのかもしれない。しかし、ほんの末端《まったん》の些細《ささい》なエピソードにすぎなくとも、あの三年間、自分の行動が歴史の一部を構成していたことは確かだった。  ザーンに帰還したダルシュは、ギルドマスターへの報告を済ませると、すぐにキャスリーンの家に向かった。胸の中は不安でいっぱいだった。彼女は待っていてくれただろうか。もしかしたら、しびれを切らし、他の男と結婚《けっこん》してしまったのではないだろうか。三年間も放《ほう》りっぱなしにしていたのだ。そうなって当然だ……。  彼を待っていたのは、驚《おどろ》きと落胆《らくたん》だった。  キャスリーンはいなかった——二か月前、父親から受け継《つ》いだ財産を処分し、急に姿を消したのだ。理由は誰にも告げなかったが、友人の話によれば、何かひどく悩《なや》み、思い詰《つ》めていた様子だったという。  留守《るす》中、彼女が他の男の誘いを断わり続け、誰ともつき合わなかったと聞き、ダルシュは悔《くや》んだ。彼女は自分を待っていてくれたのだ。どうしてあと二か月待てなかったんだ。いや、どうして自分は、あと二か月早く帰れなかったんだ……。  悔んでもしかたがない。過ぎ去った時は、もう戻《もど》らない。キャスリーンの行方《ゆくえ》は杳《よう》として知れず、ダルシュはあきらめるしかなかった。  心に深い傷を負《お》ったものの、ダルシュは再び盗賊《とうぞく》ギルドの任務に専念した。予想通り、ファンでの活動が評価され、彼の地位は上がった。  今度は国内での対犯罪班の統轄《とうかつ》を命じられた。ギルド内部の犯罪や、ギルドの利益を損ねる事件を調査するセクションだ。小さな部署とはいえ、ひとつの組織のリーダーである。まだ二四|歳《さい》の若者としては、異例の出世だ。  彼は働いた。ギルド上層部の指示に従い、忠実に任務をこなしていった。厄介《やっかい》な仕事、危険な仕事、後味の悪い仕事もあったが、すべてを順調にやりとげた。運の良さもあったが、実力もあった。そして何より、彼には意欲があった——誰よりも大物になりたいという熱い野望が。  忙《いそが》しさが心の傷を癒《いや》してくれた。時が経《た》つにつれ、彼はしだいにキャスリーンのことを忘れていった。  その事件は、彼がザーンに帰還して一年目に起きた。  石工ギルドの幹部の一人、シャズという男が殺害された。白昼堂々、大勢の人間が見ている前で、全身から血を噴《ふ》き出して死んだのだ。刃物《はもの》を使うことなく皮膚《ひふ》をずたずたに引き裂《さ》く手口は、暗黒司祭の魔術《まじゅつ》によるものに間違《まちが》いなかった。  ダルシュはその事件の究明《きゅうめい》を命じられた。しかも、ギルドマスターじきじきの指示である。部下に任《まか》せず、彼自身が極秘に捜査《そうさ》せよ、というのだ。  ダルシュは疑問に思った。ただの殺人事件なら、衛視《えいし》に任せればいい。なぜ盗賊ギルドが捜査しなくてはならないのか。ギルドマスターの指示というのも異例だ。殺されたシャズは、盗賊ギルドと関係がある男だったのか?  彼は調べた。盗賊ギルドの秘密書類をあさり、シャズとの関係を探った。盗賊ギルド内部にシャズに恨《うら》みを持つ人物がいたのかもしれない。それが分かれば、犯人を特定する手がかりになる。  ほどなく、彼はある契約書《けいやくしょ》を発見した。日付は四年前。盗賊ギルドとシャズの間に結ばれた極秘契約——殺人の依頼《いらい》である。  ダルシュはショックを受け、狼狽《ろうばい》した。まさか、そんなことが……?  まもなく、第二の殺人が起きた。古代|遺跡《いせき》を研究していた賢者《けんじゃ》が、やはり暗黒魔法を用いた手口で殺されたのだ。今度は動機がはっきりしていた。その賢者はザーン近くの古代遺跡で発見された資料の解読を進めていたのだが、その研究結果を記した書類が盗《ぬす》まれていたからだ。  幸い、賢者は書類の写しを作っていた。それを読んだダルシュは、犯人が何を目論《もくろ》んでいるのかを知った。さらに、現場から逃げ去るのを目撃《もくげき》された人物の人相|風体《ふうてい》から、犯人の正体を確信した。  知りたくなかった真実だった。  深い悲しみ、激しい怒《いか》り、重い罪の意識、そしてとまどいを胸に秘め、彼は一人、問題の古代遺跡へと向かった——すべてに決着をつけるために。  断続的に跳躍《ちょうやく》する時間の流れに沿《そ》って、すべてを見ていた老ダルシュも、否応《いやおう》なしにその瞬間《しゅんかん》に向かって引きずられていった。見たくない。いくらそう願っても無駄《むだ》だった。過去は変えられない。時間の中に深く刻みこまれた軌跡《きせき》に沿って進み、悲劇の現場に立ち合わざるを得なかった。  世界がゆらぎ、また安定した時、そこは見覚えのある場所だった。ザーンの近くにある地下遺跡の最下層だ。  巨大《きょだい》な広間の床《ゆか》、ほとんど一面を使って、複雑な魔法陣《まほうじん》が描《えが》かれていた。古代王国の魔法技術の結晶《けっしょう》だ。ダルシュには理解できない上位古代語の呪文《じゅもん》や数字、難解《なんかい》な数学的|根拠《こんきょ》に従って刻《きざ》まれた曲線や直線が、床をびっしりと埋《う》め尽《つ》くしており、壁《かべ》の四隅《よすみ》に掲《かか》げられたランタンの灯《ひ》がそれを照らし出していた。  賢者の解読した書類を読んだダルシュは、その正体を知っていた。空間をねじ曲げ、魔界へ通じる�門�を開き、デーモンを——それも最も邪悪《じゃあく》で強力なデーモンを召喚《しょうかん》するための魔法装置なのだ。  何重にも重なった同心円の中央には、そこだけぽっかりと円形の空白があった。その前に黒いローブをまとった暗黒司祭が立ち、賢者の書類を片手に、発音に苦労しながら、一連の合言葉を唱《とな》えていた。ひとつ唱えるごとに、床に刻まれた文字のどれかが青く発光する。万一、何かの事故で�門�が開いたりしないよう、幾重《いくえ》にも仕掛《しか》けられた安全装置だ。それがひとつずつ、確実に解除されてゆく。 「……キャスリーン」  若いダルシュが背後から声をかけた。女は沈黙《ちんもく》すると、ゆっくりと振《ふ》り返り、フードを取った。  覚悟《かくご》はしていたものの、老いたダルシュは再びそれを目にして、あの時と同様、胸がえぐられるほどの痛みを覚えた。フードの下から現われたたんぽぽ色の髪《かみ》は、暗い明かりの下でさえ、やはり美しかった。だが、そこにはもう春の暖かさはない。春の匂《にお》いも感じられない。  娘《むすめ》の顔はもう無邪気でも快活でもない。闇《やみ》よりも深い絶望、冬よりも冷たい悲しみをくぐり抜《ぬ》け、暗く汚《よご》れ、沈《しず》んでいた。 「……やはり、来たのね」 「君だとは信じられなかった……」 「でも、もうすべて知ってるんでしょ?」  若者はうなずいた。「……君はいつ、知ったんだ?」 「あなたが旅立った直後。噂《うわさ》が耳に入ったの。父の死は事故じゃない。誰かに窓から突《つ》き落とされたんだって」  キャスリーンの声には何の感情もこもっていなかった。おそらく、涙《なみだ》や怒りといったものは、何年も前に涸《か》れ果ててしまったのだろう。 「私は調べた。いろいろと手を回して。そして、ついに突き止めたの。シャズが盗賊ギルドに頼《たの》んで、父を殺害させたということを」  シャズは石工ギルド幹部の地位を利用し、不正を働いていた。それをキャスリーンの父カールに知られ、暴《あば》かれそうになった。そうなっては破滅《はめつ》だ。彼は保身のため、盗賊ギルドに大金を払《はら》い、カールの殺害を依頼した……。 「でも、突き止めたからといって、どうなるというの? シャズが殺人を依頼したという証拠はないわ。衛視も動いてくれない。下手《へた》に騒《さわ》ぎたてたら、今度は私が殺される。沈黙するしかなかったのよ」 「……どうして、僕を待たなかった?」 「待て、ですって?」  キャスリーンの青い瞳《ひとみ》に、冷たい憎悪《ぞうお》の光が宿った。メデューサのような鋭《するど》い視線で、かつての恋人《こいびと》をにらみつける。 「もっと待て、ですって? あの三年間、私がどんなに苦しい思いで待っていたと思ってるの? 誰にも相談できない。誰にも訴《うった》えられない。気が変になりそうだった。頼みの綱《つな》はあなただけだった。あなたなら、私のこの苦しみを理解してくれると思った。だから待ったわ。待ったのよ——あなただけを待ったのよ。  でも、あなたは帰らなかった。三年待って、私はついに負けたわ。自分に負けたのよ。そして誓《ちか》った。もう誰にも頼らない。誰も信じない。愛も、約束も、幸せも、何もかも信じないって……」  そして、彼女は闇に落ちた。  彼女は暗黒神ファラリスの教えに出会い、それに染まった。欲望を自制せず、思うままに生きることを学んだのだ。彼女はもはやダルシュを待たなかった。誰にも頼らず、自分の手で恨《うら》みを晴らそうと決意した。暗黒司祭としての腕《うで》を磨《みが》くため、復讐《ふくしゅう》の手段を探すため、彼女は財産を処分し、ザーンを旅立った。  そして今、彼女は帰ってきた——憎《にく》いシャズや盗賊ギルド、自分を見捨てた恋人、そのすべてに復讐するために。 「もう準備は整ったわ」  キャスリーンは暗い笑《え》みを浮かべ、紙きれの最後の一枚を得意げにかざした。 「�門�の安全装置はみんな解除した。あとはこの最後の呪文を唱《とな》えるだけ。魔界へ通じる扉《とびら》が開いて、凶悪《きょうあく》なデーモンがこっちの世界に攻《せ》めこんでくる。そいつは私の望みをかなえてくれるはずだわ。ザーンを滅ぼし、あなたを含《ふく》めて、盗賊ギルドのメンバーをすべて惨殺《ざんさつ》するという望みを!」 「よせ、キャスリーン……」若者の声はかすれていた。「そんなことはやめろ」 「遅《おそ》いのよ——遅すぎるわ」キャスリーンは嘲《あざけ》りの言葉を投げかけた。「ねえ、ダルシュ、あなたはいったいどこにいたの? 私が三年間、あれほど苦しんでいた間、あなたはどこにいたのよ? 私を捨《す》てて、汚《きたな》い仕事に手を染めていたわけ? くだらない夢とやらを実現するために——」 「知らなかったんだ」若者は茫然《ぼうぜん》とつぶやいた。「そんなことだなんて、知らなかった。もし知っていたら……」 「知っていたら、どうだったの?」  キャスリーンは笑った。空虚《くうきょ》な笑みだった。 「私のために大事な任務を放《ほう》り出して戻《もど》ってきた? 私の代わりに復讐してくれた? いいえ、そんなことはしないわね。あなたにとって、盗賊《とうぞく》ギルドは大事な夢ですものね。私よりも大切なんですものね。ギルドに逆らうようなことはしないわよね」  そんなことはない。  若者は否定しようとしたが、できなかった。言葉が咽喉《のど》につっかえた。自信がなかった。彼女の指摘《してき》は真実かもしれない、と思ったからだ。  その数秒の沈黙を、キャスリーンは肯定《こうてい》と受け取った。 「それがあなたの本性《ほんしょう》なのよ!」彼女の美しい顔は怒りに歪《ゆが》んだ。「汚《けが》らわしいギルドの犬!」  そう言うなり、彼女は早口で最後の呪文を読み上げはじめた。 「オゥ・ベントゥ・ヘス・エザム・アイ……」 「やめろーっ!!」  若いダルシュと老いたダルシュは同時に叫《さけ》んだ。若者は突進《とっしん》した。腰からダガーを抜き、無我夢中でキャスリーンに向かって走った。  彼らは見た。キャスリーンの背後で闇がゆらぐのを。黒い陽炎《かげろう》のように、空間に生じた裂《さ》け目が、ゆらぎ、震《ふる》え、広がるのを。その冒涜《ぼうとく》的な深淵《しんえん》の奥底《おくそこ》に、邪悪な闇がうごめくのを。  間一髪《かんいっぱつ》の差だった。娘が呪文を唱え終わる直前、若者は彼女に体当たりした。彼女は最後の一音節を発することができなかった。背後に広がりつつある闇に向かって、強く跳《は》ね飛ばされた。その瞬間《しゅんかん》を再び目にするに忍《しの》びず、老いたダルシュは思わず目を伏《ふ》せた。  ぶしゅっ。  気味の悪い音が響《ひび》いた。その音を、ダルシュは忘れることができなかった。愛する娘が死んだ音だ。  すべてが終わった。若いダルシュは言葉もなく、長いことそこに立ちつくして、自分の行為《こうい》の結果を見下ろしていた。魔法陣《まほうじん》の上に飛び散った大量の血しぶき。闇は消えていた。キャスリーンの体もまた、一片の肉も残さずに消滅《しょうめつ》していた。ただ、彼女が手にしていた紙片だけが、ちぎれて落ちていた。  何が起きたかは明らかだ。呪文は完成しておらず、�門�はまだ安定していなかった。呪文が途切《とぎ》れた瞬間、歪んだ空間は急速に縮み、消滅した。彼女の体はその歪みに巻きこまれ、瞬時にねじれ、粉砕《ふんさい》されたのだ。  どのぐらい立ちすくんでいただろうか。やがて若者はのろのろと動き出し、事件の後処理に取りかかった。震える声で合言葉を逆に読み、魔法陣の安全装置をすべて元に戻していった。呪文を記した紙片は、自分の持っている写しも含《ふく》めて、燃やして処分した。念のために魔法陣の一部を削《けず》り取り、もう誰にも利用できないようにした。すべてを無言のまま、的確に済ませていった。  涙《なみだ》は出なかった。彼もキャスリーンと同様、ずいぶん前に涙は涸《か》れていたのだ。  その後の人生は、ほとんど蛇足《だそく》のようなものだった。  若いダルシュは、自分がなぜこの事件の捜査《そうさ》を任《まか》されたかを理解した。ギルドマスターは最初から、事件の犯人がキャスリーンだと気づいていたのだろう。それでわざとダルシュに始末を押《お》しつけたのだ。彼に昔の恋人を殺す度胸《どきょう》があるか、盗賊ギルドへの忠誠心はどれほどか、測《はか》ろうとしたのだ。  そのテストに、ダルシュは見事合格したわけだ。  彼に何ができただろう。ギルドマスターに復讐する? そんなことは無意味だ。そんなことをしてもキャスリーンは帰ってこない。そもそも、彼女を死に追いやったのは、他の誰でもない、自分の責任ではないか。  ギルドを抜《ぬ》けることもできなかった。すでにギルドに深く関《かか》わりすぎ、重大な秘密を知りすぎていた。抜けることは死を意味した。  ダルシュは悩《なや》み、自問した。いったい何がいけなかったのだろう? どこで間違《まちが》えたのだろう? 人生のどこかの瞬間、違う選択《せんたく》をしていたなら、キャスリーンは死なずに済んだのではないだろうか……?  だが、すぐにそんな考え方は無意味だと悟った。過去はやり直せない。悔《くや》んでも死者は生き返らない。  自分にできることはただ、前進することだけだ。  彼は記憶《きおく》を封印《ふういん》した。忘れたのではない。忘れようとしたのだ。キャスリーンの名がよみがえってくるたびに、それを振《ふ》り払《はら》い、前を見つめた。  ダルシュは前進した。彼を信頼《しんらい》したギルドマスターは、ますます重要な任務を与《あた》えるようになり、彼はそれを前以上の情熱で精力的にこなしていった。きびしい仕事に従事すれば、心の痛みを忘れることができた。未来に向かって前進すればするほど、過去から遠ざかることができた。  功績《こうせき》を上げるにつれ、ギルド内部での彼の名声は高まった。ギルドマスターは彼を幹部に昇進《しょうしん》させ、さらに自分の右腕《みぎうで》に取り立てた。多くの部下から信頼《しんらい》され、人望が集まった。  事件から六年後、ギルドマスターが病死した時、ダルシュが新たなギルドマスターの座に就《つ》くのに反対する者はいなかった。  こうしてダルシュは、今のダルシュになった。 [#ここから1字下げ] あなたは忘れてしまったのかしら それともあれは夢なのかしら あの夜月の下 私を抱《だ》いて 放しはしないと 誓《ちか》った言葉…… [#ここで字下げ終わり]  歌姫《うたひめ》の声に、ダルシュははっとして顔を上げた。  そこは <月の坂道> の中だった。彼はカウンターの端《はし》の席に座《すわ》っていた。カウンターの板はベージュ色に戻り、天井《てんじょう》の煤《すす》も濃《こ》くなっていた。近くのテーブルには、手をつないでいるサーラとデルの姿もあった。  そして、歌姫の歌はまだ続いていた。  さっきと同じ歌だった。まだ歌い終わっていないのだ。ということは、あれはほんの一瞬の夢だったのだろうか。  それにしても、何と奇妙《きみょう》な夢だったことか。  彼は老いた頬《ほお》に伝う涙をぬぐった。何と奇妙で——そして残酷《ざんこく》な夢だったことか。  この三四年間、あの悲惨《ひさん》な事件を忘れるために生きてきたと言ってもいい。常に前を向いてきたのは、後ろを振り返りたくなかったからだ。振り返るのがあまりにもつらかったからだ。だから前に進んだ。がむしゃらに生き、もっと多くの体験を重ねれば、いつか忘れることができると思っていた。その試みは部分的には成功した。完全に忘れることはできなかったが、遠い記憶の彼方《かなた》に追いやることはできた。  それなのに——それをまた思い出すとは。  彼は近くのテーブルにいるサーラに目をやった。あの少年はデルが闇《やみ》の魔手に落ちるのを救ったという。自分にはできなかったことだ。羨《うらや》ましい、と思う。子供だからこそ持っている純粋《じゅんすい》な勇気だろう。  あの少年は、盗賊ギルドがどれほど非人道的な組織か、まだ知るまい。先代のギルドマスターの下では、利潤《りじゅん》の追求が重視され、カール殺害のような例は数多くあったのだ。彼の代になって、積極的に改革を進めた結果、非人道的な色彩《しきさい》はかなり薄れてきている。だが、完全に払拭《ふっしょく》されてはいない。暗殺や恐喝《きょうかつ》は今もしばしば行なわれている。それは盗賊ギルドの性格上、しかたのないことだ。  それを知った時、あの少年はどう変わるだろう。自分のように現実を容認し、巨大《きょだい》な力に押し流されるのだろうか。それとも、あくまで純粋さを貫《つらぬ》き、拒絶《きょぜつ》するのだろうか。できれば後者であって欲《ほ》しい、とダルシュは望んだ。あんな人生は自分だけでたくさんだ。  ワインを、お代わり。  彼はカウンターに向き直り、目の前のバーテンに言った。だが、バーテンはまるで気がつかない様子でカップを磨《みが》き続けている。聞こえないはずはないのだが。  おい、お代わりだ。  もう一度、ダルシュは強い口調で言った。だが、バーテンは反応しない。  無駄《むだ》よ。  耳許《みみもと》でささやく女の声に、ダルシュは驚《おどろ》いて振り返った。そこに黒いローブを着たキャスリーンがいた。二〇代で死んだ時の姿のままの彼女が。  キャスリーン?……彼は茫然《ぼうぜん》とつぶやいた。  彼女は微笑《ほほえ》んで言った。あなたの声は、彼には聞こえないわ。ほら、見て。  彼女は店の入口を指差した。ダルシュは見た。髭《ひげ》をたくわえた行商人姿の老人が店に入ってくる。そいつは店内を眺《なが》め回し、懐《なつ》かしそうに目を細めてから、こちらの方にすたすたと歩いてきた。  その老人は、席にダルシュが座っているのに気づかないようだった。強引《ごういん》に座ろうとする。ダルシュはまったく抵抗《ていこう》できず、あっさり席から押し出された。その老人にとって、ダルシュは目に見えず、空気のような存在らしかった。そいつは小声でバーテンにワインを注文した。 [#ここから1字下げ] きっと帰ってきて あなた どんなに傷つき疲《つか》れ 無一文でも きっと帰ってきて いつの日か たとえ命が《つ》尽きても 亡霊《ぼうれい》の姿でも…… [#ここで字下げ終わり]  歌姫は確かにさっき聴いた歌詞を繰《く》り返していた。  ダルシュは数分前の自分の姿を見下ろし、めまいと戦慄《せんりつ》を覚えた。では、ここはまだ過去なのか? わしはまだ過去の世界にとらわれているのか?  そうよ、とキャスリーンは答えた。今、あなたの魂《たましい》は肉体から離《はな》れて、時の中をさまよっているのよ。  しかし、なぜ君がここにいる。それに、なぜ昔の姿のままなんだ。死んだはずじゃなかったのか。  私は死んだわ。キャスリーンは目を伏《ふ》せ、ささやくように言った。�門�が閉じた瞬間、私の肉体は空間の歪《ゆが》みに巻きこまれ、ずたずたになった。でも、魂は残ったの。魔界《まかい》に落ちることもなく、この世に戻《もど》ることもできず、時と空間のはざまを漂《ただよ》ったわ。  時と空間のはざま?  そう、時のない世界。そこから見下ろせば、すべての出来事はタペストリーの図案のように永遠の中で静止している。私の魂はそのタペストリーの上をさまよったわ。時を超越《ちょうえつ》した存在になったの。  亡霊のようなものか?  そう。肉体は持たないけれど、どこへでも行ける。過去へも、未来へも。すべてが見えるし、聞こえるわ。でも、何の力もない。何ひとつ動かすことはできない。タペストリーを観察するだけで、それを織《お》り直す力はないの。  では、わしを過去へつれて行ったのは、君だったのか?  そう。私のことを思い出して欲しかったから。  それなら充分《じゅうぶん》だ。ダルシュは吐《は》き捨てるように言った。もう充分に思い出した。これ以上、わしを苦しめないでくれ。おとなしく死んでいてくれ。  いいえ。キャスリーンはかぶりを振った。そうじゃない。あなたを苦しめようとしてしたことじゃないの。もうあなたに恨《うら》みはないわ。  なら、どうして?  知ってもらいたかった。どうか最後まで見て欲しいの。あなたの旅は、まだ終わっていない。  まだ終わっていない? しかし、ここは現在だ。ここが終点だ。もう、ここより先に行くところはないじゃないか。  いいえ、まだ行くべきところがあるわ。  どこだ?  未来。  そう言うと、キャスリーンはダルシュの手を取り、強く引いた。  さあ、行きましょう。  またも世界が揺《ゆ》れた。歌姫の声が歪み、遠のき、聞こえなくなった。ランタンの光がゆらぎ、またたき、消えた。  世界が安定を取り戻した時、そこはまだ <月の坂道> だった。だが、明かりは消えている。開け放たれた扉《とびら》の向こうのほのかな光が、唯一《ゆいいつ》の光源だった。それは通路に穿《うが》たれた窓から差しこむ月光だった。  目が慣《な》れてくると、店内が荒《あ》れ果てていることに気づいた。テーブルはひっくり返っている。酒の瓶《びん》が床《ゆか》に落ちて割れている。床の隅《すみ》には不吉などす黒い染みもあった。人の気配《けはい》はまったくない……。  何があったんだ? ダルシュはつぶやいた。みんな、どこへ行ったんだ?  この店は潰《つぶ》れたのよ、何年も前に。キャスリーンはこともなげに言った。さあ、外に出ましょう。あなたに街を見せてあげるわ。  そう言うと、彼女は先に立ってすたすたと歩き出した。黒いローブを引きずり、埃《ほこり》の積もった床の上を歩いているのに、埃ひとつ舞《ま》い上がらず、足跡《あしあと》も残らない。ダルシュは慌《あわ》ててその後を追った。  街はひどい有様だった。  こんなことが……キャスリーンに案内されて街を歩きながら、ダルシュは衝撃《しょうげき》のあまり絶句していた。  街には頑廃《たいはい》と堕落《だらく》が横行《おうこう》していた。通路の壁《かべ》に寄りかかって堂々と麻薬《まやく》を吸引している若者がいた。幼《おさな》い子供が春をひさいでいた。階段に寝《ね》そべっている浮浪者《ふろうしゃ》の数は何倍にも増えていた。清掃《せいそう》作業が停滞《ていたい》しているのか、通路の角ごとにゴミの山があり、ひどい悪臭《あくしゅう》を放っていた。  人々の表情はすさんでいた。女たちは生活に疲れ、男たちは絶望に暗く沈《しず》んでいた。老人は頽廃を嘆《なげ》き、若者は欲望にぎらぎらと血走り、子供たちは恐怖《きょうふ》におびえていた——明るく笑っている者は一人もいなかった。  だが、何よりもダルシュを驚かせたのは、街のあちこちに堂々と掲げられたファラリスの紋章《もんしょう》だった。どうやら、ここでは暗黒神|崇拝《すうはい》が日常的なものになっているらしい。  ドレックノールでさえ、こんなにひどくはない。  ここが本当にザーンなのか? ダルシュには信じられなかった。  そう、ザーンよ。キャスリーンは答えた。新王国|暦《れき》五三四年。盗賊ギルドが国を完全に支配下に収めてから、ちょうど一〇年後のザーン。  そんなことはあり得ない、とダルシュは反駁《はんばく》した。たった一〇年で、街がこんなに荒廃《こうはい》するはずがない。  でも、事実よ。政権を収《おさ》めた盗賊ギルドは、何年もしないうちに暴走をはじめたの。他国の脅威《きょうい》に対抗《たいこう》しようと武力を増強し、禁断の魔獣《まじゅう》創造技術や、デーモン召喚《しょうかん》に手を染めた。手っ取り早く利益を得ようと、麻薬を大量に国内に流通させた。賭博《とばく》場を増やし、売春宿を増やした。いろいろな名目で税を引き上げた。街じゅうに監視《かんし》の目を張りめぐらせ、市民の動向を見張った。密告や裏切りを奨励《しょうれい》した。ギルドに対して批判《ひはん》的な者は容赦《ようしゃ》なく消していった……ついには奴隷《どれい》制や暗黒神崇拝まで合法化したのよ。  そんなことを、わしが許すはずがない。  あなたはとっくにギルドマスターじゃないわ。  だが、国王は? 法律を認証《にんしょう》するのは国王だ。あの温厚なギャスクが、そんな法律にサインしたというのか?  国王なんて、もういないわ。王族は全員、追放された。今や盗賊ギルドはザーンの政府であり、法律そのものなのよ。  では、今のギルドマスターは誰だ? この国の支配者は?  見せてあげるわ。  キャスリーンはダルシュの手を握《にぎ》り、またも強く引いた。今度は時間ではなく、空間を移動した。実体を持たない二人は、岩の層をいくつも突《つ》き抜《ぬ》け、ぐんぐんと上昇《じょうしょう》していった。  二人が到着《とうちゃく》したのは、ザーンの最上層だった。  空中庭園——そこは何世紀も昔から、王族と一部の関係者のみに立ち入りを許された別天地だった。岩山の頂部を平たく削《けず》り、樹々や芝生《しばふ》や花を植えて造られた、人工の楽園なのだ。鹿《しか》やウサギ、リス、小鳥なども放し飼いにされている。中央には池があり、魔法のオーブから湧《わ》き出す澄《す》んだ水を常にたたえている。その池はザーンの生活を支える貴重《きちょう》な水源でもあった。  市民のほとんどは、その楽園を一度も目にすることなく一生を終える。ダルシュでさえ、四〇年間に二度しか目にする機会はなかった。  今、月光の下で目にする庭園もまた、様相を一変していた。池や樹々はそのままだが、花壇《かだん》に植えられている花はけばけばしいものに変わっていた。いずれも毒物や麻薬の原料になるものだ。その間を暗い色の蛇《へび》が這《は》っていた。  だが、何よりも違《ちが》っているのは、池の周囲に何十本も立てられた柱だった。どの柱からもひとつずつ、大きな鳥籠《とりかご》のようなものがぶら下がっており、裸《はだか》の人間が閉じこめられているのだ。みんな生きていたが、死よりも悲惨《ひさん》な状態だった。ある者は病気に感染《かんせん》させられ、生きたまま体が腐《くさ》っていた。ある者は手足を切り取られ、ある者は全身に釘《くぎ》を打たれ、ある者は呪《のろ》いによっておぞましい姿に変えられていた。彼らは絶え間ない苦痛にうめいていた。ある者は精神を破壊《はかい》され、意味もなくにたにたと笑うばかりだった。悲惨な光景を数多く見てきたダルシュでさえ、恐《おそ》ろしさに震《ふる》え上がり、思わず目をそむけた。  ギルドに反抗した者たちの末路なのだ。  とりわけダルシュが衝撃を受けたのは、いちばん端《はし》の檻《おり》に入れられているのが自分だということだった。老いさらばえ、痩《や》せ細り、枯れ枝のような腕《うで》で檻にしがみついている。  薬品で体を麻痺《まひ》させられているのか、身動きもできず、白濁《はくだく》した目からは涙《なみだ》を流し、だらしなく開きっ放しになった口からはよだれを垂らし続けていた。  やがて、庭園の間を縫《ぬ》って続く小道を歩いて、一人の女が姿を現わした。  美しい女だった——ドレスは黒一色で、背中と肩《かた》が大きく露出《ろしゅつ》しており、悪趣味《あくしゅみ》なデザインだった。長く垂れた髪《かみ》も闇《やみ》のように黒い。肌は対照的に白く、ほの白い月光の下でアラバスターのように輝《かがや》いていた。年齢《ねんれい》はかなり若く、二四、五といったところか。その目もくらむばかりの美しさに、ダルシュは息を飲んだ。純粋《じゅんすい》の闇が結晶化したかのような、壮絶《そうぜつ》なまでの悪の美だ。  彼女がこの国の女王だった。暗黒神ファラリスの大司祭にして、天才的な知略家。わずか数年で盗賊ギルドを乗っ取り、ザーンを支配下に収めたのだ。  女王は深夜の散策の途中《とちゅう》、柱の前でふと立ち止まった。檻の中の哀《あわ》れな老人を見上げ、美しい顔に嘲《あざけ》りの笑《え》みを浮《う》かべる。 「おやまあ」彼女はくすくすと笑った。「まだくたばってなかったのね?」  檻の中の老人の唇《くちびる》がかすかに動くのを、ダルシュは見た。まだ意識があるのだ。声は出ていないが、何を言おうとしているのかは分かる——「殺してくれ」と言っているのだ。 「楽にしてくれ、と言ってるの? いいえ、そうはいかないわ。私はそんなに親切じゃない。あっさりとは殺さない。あなたは苦しみ抜いて、みじめに死んでゆくのよ。私の受けた苦しみ。私の受けた屈辱《くつじょく》。それを味わいながらね」  女王はいかにも楽しそうに、無力な老人を言葉でいたぶっていた。 「私が憎《にく》い? 早く殺しておけば良かったと思ってる? でもね、これはあなたが教えてくれたことなのよ、ダルシュ。あなたが私に教えてくれたの。私は父を二度失ったわ。一人目はドレックノールの盗賊《とうぞく》ギルドに殺された。二人目はザーンの盗賊ギルドに——そう、あなたに殺されたのよ。私は絶望の底に突《つ》き落とされ、そして目覚めたわ。学んだのよ。この世の本質が悪と憎悪《ぞうお》であることを。善や愛なんて無力だってことを。力こそが真理であることを。  あなたが教えてくれたのよ、ダルシュ!」  そう言うなり、女王は暗黒魔法を唱《とな》えた。檻の中の老人は激しく痙攣《けいれん》を起こし、口や鼻から血を噴《ふ》き出した。彼女はすかさず次の魔法を唱え、そのダメージを治療《ちりょう》した。老人は激痛を体験したものの、間一髪《かんいっぱつ》で生命をとりとめた。  歩み去ってゆく女の高らかな笑い声を耳にして、ダルシュはぞっとなった。犠牲者《ぎせいしゃ》を殺さずに徹底《てってい》的にいたぶるのが、彼女の流儀《りゅうぎ》であるらしい。まさに悪の権化《ごんげ》だ。  同時に、ダルシュはその女が何者なのかを理解し、衝撃《しょうげき》を受けていた。信じられないことだが、間違いない。時を経《へ》て、輝くばかりの美女に成長しているが、確かにあの顔には、幼い頃《ころ》の面影《おもかげ》がかすかに残っている……。  デル・シータ!  ザーンに反抗《はんこう》の火の手が上がった。  最初はごく散発的な抵抗《ていこう》だった。だが、じきに組織的な抵抗運動に変わった。勇敢《ゆうかん》な若者がリーダーとなって、ばらばらだったグループをまとめ上げたのだ。虐《しいた》げられていた市民たちは若者の力強い演説に勇気づけられ、立ち上がった。弱者の怒《いか》りが爆発《ばくはつ》した。「女王を倒《たお》せ!」「悪魔《あくま》を倒せ!」そう叫びながら、市民たちは武器を取った。軍の一部も寝返《ねがえ》り、反女王勢力に加わった。  ザーンは内戦に突入《とつにゅう》した。  ダルシュは見た。「岩の街」の通路という通路、階段という階段で、激しい戦いが繰《く》り広げられるのを。女王のいる最上階に攻《せ》め昇《のぼ》ろうとする市民と、それを阻止《そし》せんとする女王派の兵士。同じザーンの国民同士が剣《けん》を向け合い、斬《き》り合い、殺し合うのを。  最初のうち、戦いは一進一退が続いた。だが、外部からいくらでも補給を受けられる反政府側に対し、岩山の上部に孤立《こりつ》した政府側は圧倒《あっとう》的に不利だった。何週間も続く戦いの中、兵力をじわじわと削《けず》られ、糧食《りょうしょく》が尽《つ》き、浮き足立ってきた。ついには戦意を喪失《そうしつ》し、総崩《そうくず》れになった。  女王は新たな戦力を投入した。暗黒魔法で創造したゾンビや、魔界から召喚《しょうかん》したデーモンの類《たぐい》である。それらは猛威《もうい》を振《ふ》るい、無力な市民たちを効果的に虐殺《ぎゃくさつ》していった。通路に悲鳴が反響《はんきょう》し、街のどこもかしこもおびただしい血に染まっていった。  だが、ゾンビたちはたいして強くはなく、デーモンも数が少なかった。勇敢な戦士や魔術師たちが前に出て戦い、そいつらを打ち破っていった。苦しい戦いで大勢の犠牲者が出たものの、ついに最後の防衛線は打ち破られた。  反政府軍はどっと空中庭園になだれこんだ。  空中庭園は燃えていた。  森が炎上《えんじょう》し、オレンジ色の炎《ほのお》が夜空を焦《こ》がしていた。大量の黒煙《こくえん》が風に流され、月を覆《おお》っている。庭園のあちこちで魔法の閃光《せんこう》がひらめき、剣と剣の打ち合う音、悲鳴、怒号《どごう》、爆発音が響《ひび》いていた。  女王は孤立していた。身辺を警護していた部下たちは、すでにちりぢりになっていた。デーモンがよく戦い、反政府軍の戦士たちを庭園のあちこちに釘《くぎ》づけにしていたものの、それも時間の問題だった。事実、デーモンの防衛|網《もう》は各所で突破され、怒りに燃える戦士たちが雄叫《おたけ》びをあげながら彼女に突進してきた。  彼女は負けなかった。ありったけの魔晶石《ましょうせき》を使って暗黒魔法を放ち、接近してくる敵を次々に葬《ほうむ》った。ダルシュは彼女の圧倒的な強さを、すさまじい戦いぶりを、冷酷《れいこく》無比な殺戮《さつりく》を見た。戦士たちは見えない力に吹《ふ》き飛ばされ、あるいは血しぶきをあげながら死んでいった。誰も彼女に触《ふ》れることさえできなかった。  逃《に》げることもできたはずだが、逃げなかった。彼女は何かを待っているのだ、とダルシュは直感した。何か、あるいは誰かを——その時が来るまで、耐《た》えに耐え、徹底的に戦い抜《ぬ》くつもりだった。  だが、二十何人目かを倒した時、ついに魔晶石が尽《つ》きた。累々《るいるい》と横たわる死者たちの中に一人立ち、彼女は疲労《ひろう》にあえいでいた。ドレスの裾《すそ》は乱れ、汗《あせ》で濡《ぬ》れた顔には乱れた黒髪《くろかみ》が貼《は》りつき、壮絶《そうぜつ》な形相《ぎょうそう》となっている。それでもなお、彼女の美しさは微塵《みじん》も失われていなかった。  その時、彼女の待ち望んでいた人物がやっと現われた。  青年は炎上する森の中から歩み出てきた。その革鎧《かわよろい》は傷だらけで、握《にぎ》りしめたレイピアは数え切れないほどの殺戮の血でべっとりと汚《よご》れていた。明るい金髪《きんぱつ》にも返り血が飛び散っている。その下にある青い瞳《ひとみ》は、あまりにも多くの悲劇、あまりにも多くの死を目《ま》の当たりにして、暗い悲しみに翳《かげ》っていた。  青年は女王まで十数歩のところで立ち止まった。池のほとりで、二人は対峙《たいじ》した。炎上する森が水面に映《うつ》り、きらきらとオレンジ色の光を放っていた。そのきらめきを背景に、二人はシルエットとなって見つめ合った。 「懐《なつ》かしいわね」彼女は青年に微笑《ほほえ》みかけた。「覚えてる? この庭園に忍《しの》びこんだ時のこと。この池で泳いだわよね」 「……ああ」青年は暗い表情でうなずいた。「忘れるものか」 「ずいぶん昔のように思えるわ」 「ああ、ずいぶん昔だ——はるか遠い昔だ」  そう言うと、青年はレイビアを握り直し、一歩|踏《ふ》み出した。 「もっと早く、決着をつけるべきだった」青年の声は沈《しず》んでいた。「もっと早く、君を殺すべきだった」  女王はうなずいた。「私も——もっと早くあなたを殺しておくべきだった」 「ためらってたんだ。君を殺したくなかった。何とか救おうと思った。止めようとした。やれるだけのことはやったんだ……」 「言い訳《わけ》なんかしなくていいわ」女は感情のこもっていない声で言った。「あなたは確かに、やれるだけのことはやった。私を闇《やみ》に落とすまいと、全力を尽くしてくれた。それには感謝してる」 「でも、だめだった……」 「そう、だめだったのよ」  青年はさらに一歩、前に踏み出した。 「でも、もう迷いはない」彼の口調には堅《かた》い決意がみなぎっていた。「今夜こそ、君を殺す。それが僕の義務だから」 「どうかしら? そう簡単に殺せる? ギルドの訓練所時代を思い出してごらんなさいな。私、いつもあなたを負かしてたわよ」 「みくびるな。僕はもう、昔の僕じゃない」 「私だって、昔の私じゃないわ!」  そう言うと、彼女は変身をはじめた。ダルシュは息を呑《の》んだ。女王の背中から黒い四つの影《かげ》のようなものが伸《の》び、花が開くように四方に広がっていった。  それは翼《つばさ》だった。コウモリとも鳥とも昆虫《こんちゅう》とも似ていない。レザーのような黒い光沢《こうたく》があり、剣のように細くて薄く、大きく三日月状に反《そ》り返っており、一枚一枚は彼女の背丈《せたけ》よりも長い。上の一|対《つい》は縁《ふち》がノコギリのようにぎざぎざになっており、下の一対は先端《せんたん》部がねじれて槍《やり》のようになっていた。こんな翼を持つ生物は地上に存在しない。異界のものだけが持つ翼だった。  女王は四枚の異形《いぎょう》の翼を背負い、炎の明かりの中にすっくと立っていた。彼女はもう人間ではなかった——魔界のものと合体し、人間を超えた存在になっていたのだ。  青年は共通語魔法を唱《とな》えた。レイピアの刃《は》が白い魔法の輝《かがや》きを放つ。 「行くぞ!」  そう叫びながら、青年は地を蹴《け》り、突進した。女王も走り出した。  青年の左手から何かが飛んだ。女王は走りながら、上の翼を振るってそれを払《はら》いのけた。はじき飛ばされた炎晶石《えんしょうせき》が地面に落ちて爆発《ばくはつ》する。さらに二個の魔石が飛んでくる。かわしきれない。女王はとっさに立ち止まり、四枚の翼を体の前面で交差させ、爆発の衝撃《しょうげき》を受け止めた。  爆煙をくぐって、青年が肉迫《にくはく》した。すさまじい速度で突《つ》き出される白く輝くレイピアが、さながら一条のビームのように、女王に襲《おそ》いかかる。だが、それはわずかに急所をそれ、彼女の脇腹《わきばら》を傷つけたにとどまった。  女王はすかさず翼を使って反撃した。四本の凶器が四方から青年に襲いかかる。普通《ふつう》の人間なら一瞬《いっしゅん》でずたずたにされただろうが、青年は驚異《きょうい》的な敏捷《びんしょう》さでそれを見切り、すべてかわしてみせた。ひとつだけ完全にはよけきれず、肩《かた》当てを吹《ふ》き飛ばされた。両者は体勢を立て直し、再びぶつかり合った。 「死ね、デル!」 「死になさい、サーラ!」  二人は叫《さけ》びながら戦い続けた。ダルシュはこんな壮絶《そうぜつ》な決闘《けっとう》は見たことがなかった。魔物の黒い四枚の翼の猛攻《もうこう》と、それをかわしながら繰《く》り出される白いレイピア。黒と白、闇と光が交錯《こうさく》し、めまぐるしくせめぎ合い、ぶつかり合った。血しぶきが何度か飛んだが、すでにどちらの血かも分からなかった。かつての恋人《こいびと》たちは、狂気にかられたかのように殺し合っていた。  ああ、もうやめてくれ! ダルシュは声にならない声で懇願《こんがん》した。これでは自分たちの悲劇の再現ではないか。なぜ同じあやまちを繰《く》り返すのだ? なぜ愛し合う者同士が傷つけ合わねばならないのだ?  だが、その声は二人には届かなかった。周囲で繰り広げられている戦いの喧噪《けんそう》も、炎上《えんじょう》を続ける森も、すでに彼らの認識《にんしき》の外にあった。彼らは二人だけの世界に没入《ぼつにゅう》していた。二人ともすでにぼろぼろで、血にまみれていた。それでも一瞬たりとも攻撃の手をゆるめようとはしなかった。まるで愛の行為《こうい》のような激しさで戦い続けた。  サーラの方がわずかに有利だった。革鎧は傷だらけで、あちこちにかすり傷を負っていたが、まだ深手はない。一方、彼のレイピアは黒い翼をかいくぐり、何度もデルの肉体に深く突《つ》き刺《さ》さっていた。それでも動き続けることができるのは、魔界の生物の生命力のせいだろうか。  何度目かの攻撃が命中した直後、彼女の動きが鈍《にぶ》り、ぐらりとよろめいた。一瞬、翼がだらりと垂《た》れて無防備になる。サーラはそれを見逃《みのが》さなかった。「死ねえええっ!」と叫びながら、力のかぎりレイピアを突き出す。  だが、それはデルの策略だった。レイビアが肩に深々と突き刺さった瞬間、下の一対の翼がすばやく動いて、蛇《へび》のようにサーラの胴《どう》にからみつき、動きを封《ふう》じた。二人はもつれ合ったままバランスを崩《くす》し、芝生《しばふ》の上に転倒《てんとう》した。  両者はからみ合い、身動きが取れなくなっていたが、それでも戦いをやめようとしなかった。サーラはデルの上に馬乗りになり、肩に突き刺さったままのレイピアをぐりぐりとねじった。肉をえぐられ、デルは悲鳴をあげた。彼女は上の翼のうちの一枚を彼の上腕部《じょうわんぶ》に叩《たた》きつけた。ノコギリのような刃が肉に深く食いこむと同時に、それを勢いよく前後に動かした。今度はサーラが悲鳴をあげる番だった。デルの翼は数秒で彼の右腕を斬り落とした。  二人とも激痛のために動きが鈍っていた。デルは痛みにうめきながらも、上の二枚の翼を動かし、サーラの首の前で交差させた。ハサミで紙を切る要領で、彼の首を切断するつもりだった。  サーラは残された最後の力を振《ふ》り絞《しぼ》った。まだ自由の利く左手で、ポケットの中から残りの魔石をつかみ出す。薔薇《ばら》色の炎晶石が一個と、黄色の雷晶石《らいしょうせき》が二個だ。それを大きく振りかぶる。 「うわああああっ!」  二人は同時に声をあげた。デルが翼を動かすと同時に、サーラは彼女の顔面に三つの魔石を叩きつけた。  膨張《ぼうちょう》する火球が二人を包みこみ、まばゆい紫色《むらさきいろ》の電光が空に向かって駆《か》け上がった。  ザーンは廃墟《はいきょ》となった。  女王とその配下は滅《ほろ》びたものの、反政府側の損失もあまりにも大きかった。数千の人命が失われ、街の中の重要|施設《しせつ》の多くが破壊《はかい》された。最後の戦いのとばっちりで、池の中で水を湧《わ》き出していた魔法のオーブも砕《くだ》けた。水源を断たれた「岩の街」に、もはや多くの市民の生活を支える力はなかった。  生き残った人々には、勝利の感慨《かんがい》などなかった。彼らは空《むな》しさを噛《か》みしめながら、住み慣《な》れた街を後にし、四方に散っていった。少数の者だけが自《みずか》らの意志で廃墟に残った。放置されたままのおびただしい死体を埋葬《まいそう》し、死者たちの魂《たましい》を鎮《しず》めるために。  廃墟となったザーンに「鎮魂歌《レクイエム》」が流れた。歌っているのはあの歌姫《うたひめ》だ。彼女は喪服《もふく》を着て、無人となった通路から通路、階段から階段へと歩きながら、呪歌《じゅか》で死者の魂を鎮めて回った。無残な死を遂《と》げ、街のあちこちに残留していた霊《れい》たちは、彼女の歌によって安らぎ、暴れるのをやめた。  限りない|静寂《せいじゃく》の中で、「岩の街」ザーンはその歴史を閉じた。  ダルシュはもうそれ以上見たくなかった。どのみち、もうその先はなかった。彼に見ることのできるのは、そこまでだった。  なぜなら、未来はもうないからだ。彼が見ることができるのは、自分の人生の中の過去と未来だけだ。檻《おり》の中に閉じこめられたまま、老ダルシュの存在は忘れ去られた。空中庭園の炎上から三日後、彼の生命は尽《つ》きたのだ。  そこから先には、ぽっかりと黒い深淵《しんえん》が口を開けていた。それは恐《おそ》ろしい吸引力でダルシュを飲みこもうとしていた。絶対不変の定め。生ある者は決して逆らうことのできない巨大な力——死。  落ちる! ダルシュは恐怖《きょうふ》におののいた。意志に反して、魂がぐいぐいと深淵に向かって引きずられてゆくのを感じる。それに逆らうことはできない。死に打ち勝つことは誰にもできない。  助けてくれ!  そう叫んだ瞬間、キャスリーンが彼の手をつかんだ。深淵に落ちかけていた彼を引き上げ、過去へと引きずり戻《もど》す。  唐突《とうとつ》に、ダルシュはあることに気づいた。自分の手をつかんでいるキャスリーンの手に、ぬくもりがあるのだ。彼は不思議に思った。肉体を持たない魂だけの存在が、なぜ暖かく感じるのか?  キャスリーン、君は……?  ええ、そうよ。彼女は恥《は》ずかしそうに、あの夜、髪飾《かみかざ》りをプレゼントした時のように、そっとささやいた。今でもあなたを愛しているわ。  あなたへの愛を忘れたことなんてなかった。あなたを恨《うら》み、憎《にく》みはしたけど、憎しみが頂点にあった時でさえ、強く愛し続けていた。あなたに殺された瞬間でさえ、あなたを愛していた。  すまない。ダルシュは泣いて謝《あやま》った。すまない……。  謝らなくていいのよ。後悔《こうかい》しなくていいの。あなたは正しいことをしてくれた。私がもっと大きな罪を犯《おか》す前に、殺してくれたわ。止めてくれたのよ。本当を言えば、私はあなたに殺してもらえることを、心の底で望んでいたのよ。  だから、あのデルの気持ちが、私には分かるわ。彼女もサーラの手にかかって死にたかったのね。それで、逃げずに彼を待っていたのよ。  ねえ、ダルシュ。謝らなくてはいけないのは私の方よ。私は魂だけの存在になって時の中を漂《ただよ》いながら、あなたの人生を見たわ。私の死が、あなたにどんな重荷を背負わせたか。あなたにどんなつらい人生を歩ませたか。  私は待つべきだったんだわ。あの歌にあるように。たとえあなたに忘れられても、裏切られても。たとえあなたの言葉が嘘《うそ》だったとしても。愛を信じるなら。だって——だって、少なくとも、私のあなたに対する愛は本物だったもの。  わしも愛していた。ダルシュは言った。本当に愛していたんだ。  知ってるわ。だから、私は待つべきだったのよ。たとえ命が尽《つ》きても、墓の下でずっと。時の流れが果てても、その先までも。  でも、私は待てなかった。負けたのよ。誰でもない、自分自身に。  だから、私は謝りたかった。教えてあげたかった。悪いのは私なんだって。私の弱さが原因なんだって。あなたは罪の意識を感じる必要なんかないんだって。  何度も語りかけようとしたわ。でも、あなたには私の声は届かなかった。あなたは私の声を聴《き》こうとしなかった。顔をそむけ、耳をふさいでいた。振り向いてもらおうとしたけど、できなかった。  こわかったんだ。ダルシュは言った。過去に直面するのがこわかったんだ。だから、君のことを忘れようとした。君の名前が心に浮《う》かぶたびに、強く打ち消した、振り返るのがこわかったから、前を見続けた。過去から逃げようとして、未来に進み続けた……。  だから、私の声が聞こえなかったのね。  ああ、きっとそうだ。  でも、あの夜だけは違《ちが》った。五二二年の大晦日《おおみそか》の、あの夜だけは。思い出の <月の坂道> の中で、あの歌姫の歌を耳にして、あなたは過去を思い出した。初めて振り向いたのよ。そして、私もまた、あの歌に心|惹《ひ》かれたわ。あの歌に歌われているのが私自身のような気がして。  二人がともに歌を聴いて、ともに心を動かされた時、二つの心が同調したのよ。だから私は、あなたの魂に触《ふ》れることができた……。  ああ、そうか。ダルシュは理解した。歌というのは、心を揺《ゆ》さぶるものだという。魔法ではなく、呪歌でもない、ただの恋歌《こいうた》でも、奇跡《きせき》を起こすことはできるのだ。  ひとつだけ教えてくれ。  何?  君は、時というのはタペストリーの図案みたいなものだと言ったな。時の中で静止していると。なら、あの未来はどうなんだ? あの未来もすでにタペストリーの一部になっているのか? 変えられないのか?  いいえ。未来の図案はまだ織《お》られてはいないわ。過去はたったひとつしかなく、変えられないけど、未来にはたくさんの可能性がある。あなたに見せたのは、あり得る未来のうちのひとつなのよ。それをあなたに教えたかったの。あなたや、このザーンに、悲惨《ひさん》な死を迎《むか》えさせたくなかったから。  わしがあの計画を実行すれば、ああなるのか?  必ずああなるわけじゃないでしょう。やり方しだいだと思うわ。  だが、アルドがあくまで計画に反対するなら、彼を殺さねばならなくなるのは確かだ。そして、デルは闇《やみ》に落ちる——どうすればいい?  それはあなたの決断しだいよ。あなたの人生なのだから、あなたの力で切り開いてゆくべきだわ。これまでと同じように。  そうか……そうだな。  それを忘れないで。そう言うと、キャスリーンは微笑《ほほえ》んだ。これで終わりよ。私は、もう行かなくては。  ダルシュは狼狽《ろうばい》した。どこへ?  彼岸《ひがん》へ。すべての死者が行くところへ。あなたと話せて、言いたかったことはすべて言えたから。もう未練は晴れたわ。だから、行かなくては。  しかし、せっかくまた会えたのに。  行かなくてはならないの。それがこの世の摂理《せつり》だから。  そうか……。  でも、悲しまないで。私は待ってる。向こうの世界で。いつまでも……。  そう言うと、キャスリーンは彼の手を放した。  さようなら、ダルシュ。あなたを愛してる。永遠に……。 [#ここから1字下げ] 私は忘れない この愛を たとえあなたが忘れても 死んでしまっても 私は信じてる 思い出を たとえすべてが夢《ゆめ》でも 幻《まぼろし》でも 私は待っている あなたを どんなに変わり果てても ただあなただけを 私は待っている いつまでも たとえ命が尽きても 墓の下でずっと 時の流れが果てても その先までも この歌が続くかぎり 永遠に…… [#ここで字下げ終わり]  最後のリフレインが終わり、長かった歌は終了《しゅうりょう》した。  歌姫は頭を下げた。聴衆《ちょうしゅう》の間から静かな拍手《はくしゅ》が起きた。激しくはないが、熱意のこもった拍手だ。サーラとデルも拍手していた。  聴衆の中には、立ち上がって歌姫に銀貨を差し出す者もいた。彼女は上品な微笑《ほほえ》みを浮《う》かべ、おじぎをしながら、一枚ずっていねいに受け取った。いつしか、彼女の回りには自然と人垣《ひとがき》ができていった。彼女にとっては、金よりも、聴衆が感動してくれたことの方が嬉《うれ》しいようだった。  僕も銀貨を渡《わた》すべきなのかな——と思案していたサーラは、ふと、近くのカウンター席に座《すわ》っていた行商人風の老人に気がついた。歌の途中《とちゅう》で入ってきた男だ。  老人は泣いていた。カウンターに肘《ひじ》をつき、声を出さず、涙《なみだ》を流している。あのお爺《じい》さん、そんなに感動したんだろうか、と少年は不思議に思った。確かに素敵《すてき》な歌ではあるけど、恋の歌だ。あんなお爺さんには似合わない。  老人が涙をぬぐい、こちらを向いたので、視線が合った。泣いているところを見られていたと知り、老人はちょっとばつの悪そうな顔をした。 「……ああ、坊《ぼう》や」  老人はのろのろと立ち上がり、サーラに近づいてきた。 「何ですか?」 「頼《たの》みがあるんだが、あの歌姫にこれを——」  そう言って、サーラに一枚の金貨を差し出した。 「渡してくれないかな」 「えっ、でも……」  サーラは困惑《こんわく》した。見知らぬ人物にそんなことを頼まれるのも変だが、歌姫に金貨を渡すのも異例だ。金貨一枚は、銀貨五〇枚の価値がある。 「私は恥ずかしいことが苦手《にがて》でね。頼むよ」 「はい……」  サーラがとまどいながらも承諾《しょうだく》すると、老人は深い満足の笑《え》みを浮《う》かべ、ゆっくりとした足取りで店を出て行った。 「誰なの……?」  デルがささやいた。サーラは肩《かた》をすくめる。 「知らない——でも、悪い人じゃなさそうだよ」  そう言って、歌姫の方を見た。彼女に銀貨を渡す者の列は、まだ続いている。彼女の婆は人垣の向こうで見えなかった。  金貨を渡すのは来年になりそうだった。  ダルシュは知らない。その歌姫がアルシャナという名であることを。  アルシャナも知らない。ダルシュのことを。自分の歌が彼にどんな感銘《かんめい》を与《あた》えたかを。  彼女は知らない。自分の歌がザーンの歴史の重大な分岐《ぶんき》点になったことを。  人々が自分の歌を聴いて何を感じるのか、彼女には分からない。自分の歌が世界にどんな影響《えいきょう》を与えるのか、考えたこともない。そんなことは些細《ささい》な問題だった。彼女は結果など気にしない。歌の力を信じて、今日も、そして明日も、歌い続けるだけだ。  彼女にできることはただ、歌うことだけなのだから。 [#地付き]BGM:小坂水澄「SINGING QUEEN」 [#改ページ]   リゼットの冒険《ぼうけん》  その日、ボクたちの村に冒険者《ぼうけんしゃ》がやってきた。  冒険者だよ、本物の! こんなこと初めて。いや、ボクがまだ赤ん坊《ぼう》だった頃、畑を荒《あ》らすゴブリンを退治《たいじ》に来たパーティがいたって父さんから聞いたけど、そんなの覚えてないし。ボクにとって冒険者は、大人から聞かされるおとぎ話や、行商人の広める噂話《うわさばなし》、吟遊詩人《ぎんゆうしじん》のサーガの中の存在《そんざい》でしかなかった。本物を知らないから、勝手にイメージをふくらませてきた。  剣《けん》を振《ふ》るって怪物《かいぶつ》に立ち向かう。魔法《まほう》で雷《かみなり》を起こし、悪い奴《やつ》らをこらしめる。神様の力を借りて病気や怪我《けが》を治す。地下|迷宮《めいきゅう》を探検《たんけん》して、危険《きけん》な罠《わな》をくぐり抜《ぬ》け、宝物《たからもの》を手に入れる。まさに英雄《えいゆう》——かっこいいよね。楽しそうだよね。そう思わない?  だけど「冒険者になりたい」って言ったら、父さんや母さんはすごく嫌《いや》な顔をする。あんなのは堅気《かたぎ》の仕事じゃないって。一|箇所《かしょ》に腰《こし》を落ち着けない浮《う》き草のような暮《く》らし。暗い地の底を這《は》いずり回ったり、薄気味《うすきみ》悪いバケモノと戦ったり、手を血で汚《よご》して金を儲《もう》けるなんて、まともな奴のやることじゃないって。リゼット、お前も今年で十三|歳《さい》、そろそろ大人なんだから、おとぎ話を本気にするのはやめなさいって。  そう言う父さんたちだって、冒険者の日常《にちじょう》がどんなものか、本当は何も知りやしないくせに。ゴブリン退治に来た冒険者にしても、ろくに言葉も交《か》わさなかったし、戦ってるところも見なかったって言うんだから。自分で勝手に想像《そうぞう》して毛嫌《けぎら》いしてるだけなんだ。ボクとどこが違《ちが》うって言うのさ?  友達のメイだってそう。ボクが「冒険者になりたい」って言ったら、決まってこう言うんだ。 「あんなの女の子のやることじゃないわよ」  そうなんだ。女の子! 女の子! 女の子! その言葉がいつもボクについて回る。女の子がやっちゃいけないことが多すぎる。スカートをまくっちゃいけません。木登りしちゃいけません。男の子といっしょに川で泳いじゃいけません。けんかしちゃいけません。乱暴《らんぼう》な言葉を使っちゃいけません……ああ、もう、うっとうしい!  小さい頃はこんなじゃなかった。兄弟が四人とも男だったから、自然に兄さんたち男の子のグループといっしょに遊んだ。ボクが女の子だって理由だけでからかってくる奴と、よく取っ組み合いもやった。負けるのが悔《くや》しくて、兄さんたちにいろんな技《わざ》を教わったもんで、ちょくちょく同じ年頃の男の子を組み敷《し》いて、降参させられるようになった。そのうち「リゼットは強い」と一目置かれるようになった。いい気分だった。  でも、ボクの胸《むね》がふくらんでくると、男の子たちは自然にボクを避《さ》けるようになった。ボクの体が高価《こうか》なガラスの器《うつわ》か何かのように、びくびくして触《さわ》ってこなくなった。ボクの方ではぜんぜん男の子なんて意識《いしき》してないっていうのに。  父さんや母さんも、ボクが男の子と遊ぶのを禁《きん》じた。リゼット、女の子と遊びなさい。リゼット、女の子らしい格好《かっこう》をしなさい。リゼット、おしとやかに振る舞《ま》いなさい。そんなんじゃ嫁《よめ》の貰《もら》い手がありませんよ——広かったボクの世界は急に狭《せま》くなった。  女の子のグループには溶《と》けこめなかった。花を摘《つ》んだり、刺繍《ししゅう》をしたり、お手玉をしたり、歌を歌ったり……そんな「女の子らしい」遊びが、ボクには退屈《たいくつ》でたまらなかった。女の子たちがうっとりとした顔で語る、素敵な男の人に出会って花嫁になるというありふれた夢《ゆめ》にも、興味《きょうみ》が持てなかった。棒《ぼう》きれを剣に見立てて怪物退治ごっこをしたり、森の中を探検する方が、ずっと楽しい。女の子らしくなんかしたくない。  どうして男の子に生まれなかったんだろう。男の子なら「冒険」とか「戦い」という勇《いさ》ましい言葉が似合《にあ》うのに。どうして女の子が「冒険がしたい」とか「英雄になりたい」とか言うと「女の子のやることじゃない」って言われるんだろう。  まあ、体の問題についてはどうしようもないからあきらめるとしても、女の子だから冒険者になっちゃいけないって、絶対《ぜったい》におかしい。行商の人から聞いた話じゃ、世の中には女の冒険者もけっこういるらしい。「女の子のやることじゃない」というのは偏見《へんけん》だと思う。  そうそう、ボクがサーラたちに出会った日の話だった。  用事でザーンに出かけていた村長のタロスさんが、五人の冒険者を連れて戻《もど》ってきたのには、みんなびっくりした。いちばん驚《おどろ》いたのはボクだ。だって、山の中で怪物を見たというボクの話を疑《うたが》ってかかって、あんまり騒《さわ》ぎ立てるなと釘《くぎ》を刺《さ》したのは村長なんだもの。ぜんぜん信用されてないんだと思ってむくれたもんだけど、そうじゃなかったみたい。村長はザーンに行ったついでに、念のために「冒険者の店」に寄って、ボクが見た怪物の話に真実味があるかどうか訊《たず》ねたんだそうだ。そうしたら、どうやら話が本当で、かなり危険な怪物らしいと分かって、慌《あわ》てて冒険者たちに村に来てもらったんだって。  もちろん、冒険者に怪物退治を依頼《いらい》するにはお金がかかるし、村長の一存で村のお金は使えない。それで緊急《きんきゅう》の会合を開いて、どうするかを相談することになった。とりわけ確認《かくにん》しなくちゃいけないのは、怪物が本当に危険なのかどうか、冒険者を雇《やと》う必要があるかどうかだ。  そんなわけで、ボクはその夜、村の集会所に呼《よ》び出された。月に一回、大人たちが寄り合いをするのに使う建物だ。たまに旅人が寝泊《ねと》まりすることもある。いつもは鍵《かぎ》がかかっていて、ボクたち子供《こども》が入れる機会はめったにない。おまけに本物の冒険者に会えるんだもの。緊張《きんちょう》するなって言う方が無理だ。  父さんが入口の前に立ち、ノックする。 「リゼットを連れてきました」 「待ってたよ。お入り」  村長さんにうながされて、父さんは扉《とびら》を開けた。ボクはどきどきしながら、中に足を踏《ふ》み入れた。さすがに「失礼します」と、おしとやかな声を出して。  入口から部屋の奥《おく》に向かって、長いテーブルが置かれていた。その向こうの端《はし》に、見慣《みな》れない五人が座《すわ》っていた。ボクは唾《つば》を呑《の》みこみ、彼らを観察した。  髭面《ひげづら》の猛者揃《もさぞろ》いを予想してたんだけど、真正面の上座《かみざ》に座っていたのは、意外にも若《わか》い男の人だった。この人がリーダーなんだろうか。きちんと梳《と》かした茶色い髪《かみ》。優《やさ》しそうな眼《め》でボクを見つめている。ちょっとハンサムで、いかにも実直そうな好青年って感じだった。とても戦う人には見えない。  その両隣《りょうどなり》には、女の人が向かい合って座っていた。すごく対照的な二人だ。一人は赤い髪のすらりとした体格《たいかく》のハーフエルフで、とてもきれい。派手《はで》に着飾《きかざ》ってるわけでもないのに、上品な雰囲気《ふんいき》がある。その向かい側の女の人は、銀髪《ぎんぱつ》でがっしりした体格。顔に傷《きず》があって、ちょっと乱暴そうな雰囲気。評判《ひょうばん》に聞く女戦士ってやつだろうか。にらみつけるようにボクを見ている。  ハーフエルフの隣に座っているのは、何ともおかしな人だった。部屋の中だというのにマントを着たままで、頭まですっぽり頭巾《ずきん》で隠《かく》していて、顔は見えない。男か女かも分からない。神秘《しんぴ》的な雰囲気がするから魔術師《まじゅつし》なんだろうか。  そして五人目——ボクは彼がいちばん気になった。だって、まだ子供なんだもの。どう見てもボクと同じぐらいの歳の男の子だ。きれいな金髪で、女の子みたいにかわいらしい顔。とても冒険者《ぼうけんしゃ》らしくない。でも、村の子供じゃないから、パーティの一員に違《ちが》いない。  その視線《しせん》に、どきっとなった。澄《す》んでいるけど、虚《うつ》ろな冷たい眼《め》——ボクの方を向いているのに、何も見ていないような無関心な視線。まるでボクの体を透《す》かして、背後《はいご》の夜の闇《やみ》を見ているみたい。  他《ほか》にも村の大人が何人かいた。みんなから注目されて、ボクは少し堅《かた》くなっていた。 「この子がリゼットです」父さんが紹介《しょうかい》する。 「こんばんは、リゼット」リーダーの男の人が、人なつこい笑顔《えがお》で話しかけてきた。「自己紹介しておくよ。僕《ぼく》はこのパーティのリーダーのデイン。それから、ミスリル、フェニックス、レグ。それにサーラ」  順番に仲間を紹介した。頭巾をかぶったミスリルという人は、無言で頭をちょっと下げただけ。ハーフエルフのフェニックスは「よろしく」と微笑《ほほえ》みかけ、レグは「よお」と無愛想《ぶあいそう》にあいさつする。  あのサーラという男の子だけが、何の反応《はんのう》も示《しめ》さなかった。やっぱり虚ろな目つきでボクを見ているだけだ。失礼な奴《やつ》。ボクはちょっぴり反感を覚え、にらみ返してやった。男の子は気まずそうに視線をそらせる。ふうん、ボクが目に入ってなかったわけじゃないのか。 「そんなに緊張しないで」フェニックスが優しい口調で言った。「あなたの話を聞きたいだけだから」 「立ってないで座るといいよ」デインが勧《すす》めた。「その方が落ち着くだろう」  悪い印象を与《あた》えてはいけない。ボクはお上品にスカートをつまみ上げ、おずおずとデインと向かい合う席に座った。父さんは横の席に座る。 「なにぶん子供の言うことですから、話半分に聞いてやってください」  父さんはひどく恐縮《きょうしゅく》していた。ボクの話を信じてもらいたがっていないようだ。まだボクがホラを吹《ふ》いてると疑ってるんだろうか。ちょっと傷ついた。 「お父さん」デインが静かに言った。「娘《むすめ》さんの話が本当かどうか、判断《はんだん》するのは僕たちの仕事です」 「しかし——」 「信じてください。僕たちは怪物《かいぶつ》のことならよく知ってます。子供《こども》の空想かどうかぐらい、判断できますよ」  デインの自信にあふれた口調に、父さんは黙《だま》りこんだ。ようやく理解《りかい》してくれそうな人にめぐり会えて、ボクは嬉《うれ》しくなった。きっとデインはボクの味方だ。 「さて、リゼット」とデイン。「怪物を見たそうだけど、詳《くわ》しく聞かせてくれるかな?」 「は、はい」  みんなから注目されて少しあがっていたけど、ボクは自分の見たものをなるべく正確《せいかく》に話した。  男の子のグループからはじき出され、女の子たちにもなじめなかったボクは、一人で遊ぶことが多くなっていた。山菜|摘《つ》みを口実に、裏山《うらやま》のさらに向こう側、深い森の中に分け入るのだ。  他の子はこわがって、村からあまり離《はな》れようとしない。そりゃあ、ボクだってこわい。昼でも暗い森をひとりぼっちで歩いていると、山賊《さんぞく》に出くわすんじゃないか、狼《おおかみ》か怪物に襲《おそ》われるんじゃないかと、心臓《しんぞう》がどきどきする。近くで鳥が急にギャアッと鳴いたりすると、びっくりして泣きそうになる。  普通《ふつう》の人なら、そんなこわい体験をするのを嫌うものだ。でも、ボクはどういうわけか、他の人と違う。恐怖《きょうふ》を避《さ》けたいと思わない。がたがた震《ふる》えるし、泣き出したくなったりもするけど、その反面、不思議に心が躍《おど》る。こわければこわいほどわくわくするんだ。きっと生まれつき頭の仕組みがみんなと違ってるんだろう。心臓のどきどきや、背筋《せすじ》を走る寒気、見えない手で首を絞《し》められるような感じ——そのすべてが、ボクにとっては一種の快感《かいかん》なんだ。  だからボクは毎日のように山歩きをしていた。友達からは「変な子」と笑われていたし、両親には危険《きけん》だからやめておけと注意されていたけど、ボクは気にしなかった。森の奥深《おくふか》くまで踏《ふ》みこみ、誰《だれ》も歩いたことのないところを歩いて、たった一人のささやかな冒険を続けていた。宝物《たからもの》の隠《かく》された洞窟《どうくつ》を探索《たんさく》に行くのだと想像《そうぞう》して、山道を歩いた。適当な木の棒《ぼう》を拾ったら、それを剣《けん》に見立て、女戦士になった自分を想像して遊んだ。森の中の空き地で棒を振《ふ》り回して、空想の怪物をばったばったとやっつけるのだ。 「えい、やあ、参ったか」 「そんな魔法《まほう》なんて効《き》くものか」 「邪悪《じゃあく》な魔獣《まじゅう》め、正義《せいぎ》の一撃《いちげき》を受けてみろ」  さすがにこれは自分でも子供っぽいと思う。恥《は》ずかしいから誰にも見られたくない。森の奥深く、まわりに誰もいないと確信した時だけやる秘密《ひみつ》の遊びだ。  それと——これはデインたちにも話さなかったけど——もっと刺激《しげき》的な遊びもする。自分では「女戦士の危機ごっこ」と呼んでいる。細い蔓《つる》を体に巻きつけて、地面に横になり、敵《てき》に捕《つか》まって縛《しば》り上げられていると想像するのだ。まわりでは餓《う》えたゴブリンどもが、新鮮《しんせん》な肉を囲んで嬉しそうに踊《おど》り回っている。ボクを丸焼きにするための焚《た》き火も、赤々と燃えている。助けは来ない。ボクは必死に身をよじって、束縛《そくばく》から逃《のが》れようともがく。  設定《せってい》は毎回変わる。ある時は、ボクは暗黒神の信者に捕まって生贄《いけにえ》にされようとしている。ある時は、オーガーに捕まって生きたまま皮を剥《は》がれようとしている。ある時は、邪悪な魔術師《まじゅつし》の実験材料にされようとしている。でも、結末はいつも同じ。ボクは最後には蔓をひきちぎって立ち上がり、剣を奪《うば》い返して、果敢《かかん》に敵に逆襲《ぎゃくしゅう》する。女戦士リゼット様に立ち向かった不届《ふとど》き者《もの》をこらしめてやるのだ。  最近、この秘密の遊びがさらにエスカレートした。蔓を体に巻く前に、服を全部|脱《ぬ》ぐのだ。ゴブリンに食われるにせよ、暗黒神の生贅にされるにせよ、犠牲者《ぎせいしゃ》は裸《はだか》にされるだろうと気がついたからだ。これは最高に興奮《こうふん》する。当然、絶対《ぜったい》に誰にも見られたくない。見られたら恥ずかしくて死ぬ。だからボクは、それまでよりいっそう山の奥深く、村の人が決して来ない場所まで足を踏み入れるようになった。  おかげで大変な発見をした。  その日も「女戦士の危機ごっこ」のできる場所を求めて、山の中をうねうねと続く獣道《けものみち》を、あてもなしに歩いていた。もちろん迷子になっては困るから、別れ道に差しかかるたびに、毛糸を木の幹《みき》や枝《えだ》に縛りつけ、目印をつけておいた。  不意に森が途切《とぎ》れ、前方に青空が広がった。山の一部が崩《くず》れて崖《がけ》になっているところに出たのだ。獣道はボクの立っている場所から数歩のところで消滅《しょうめつ》し、その先はすぱっと切り落とされたように何もなかった。  ボクは興味《きょうみ》をそそられた。しゃがみこんで地面に手をつき、スカートが汚《よご》れるのもかまわず、樹々《きぎ》の間を赤ん坊《ぼう》のように這《は》って、崖の縁《ふち》ににじり寄る。そろそろと空中に頭を突《つ》き出すと、吹《ふ》き上げてきた早春の肌寒《はだざむ》い風に、黒い髪《かみ》がひるがえった。  高いところから見下ろす時に特有の、何かに吸《す》い寄せられるような、ひやっとした感じが襲ってきた。思わず、落ちないように草を握《にぎ》りしめる。その一瞬《いっしゅん》の、恐怖とも快感ともつかない感覚が、ボクは気に入っている。  崖はそこそこ高かったし、途中まではかなり険《けわ》しかった。たぶん山の斜面《しゃめん》の一部が豪雨《ごうう》か何かで崩れたんだろう。急斜面に赤っぽい土が露出《ろしゅつ》していて、ところどころ雑草《ざっそう》が生えていた。崖の中ほどあたりから傾斜《けいしゃ》は急にゆるやかになり、その下は狭《せま》い空き地になっている。崩れ落ちた土砂《どしゃ》が、谷間の樹々を押《お》し倒《たお》し、埋《う》めてしまったんだろう。生《お》い茂《しげ》った草の間から、ごつごつした岩がたくさん突き出していて、転げ落ちたら命がないのは明らかだ。  その崖の途中に、人が何人も寝転《ねころ》がれるぐらいの広さの岩棚《いわだな》が、テラスのように水平に突き出ていた。やけに直線的で、なんだか人の手で切り出されたような感じだった。  その岩柵に、そいつは立っていた。  四本の足で歩く獣らしかった。でも、狼《おおかみ》や狐《きつね》よりずっと大きい。上からでは顔は見えなかったけど、頭は人間みたいな感じで、もじゃもじゃの髪が生えていた。茶色っぽい毛皮に覆《おお》われたその背中《せなか》には、畳《たた》まれた黒いカーテンのようなものが二|枚《まい》、くっついてる。ボクはそれがコウモリのような翼《つばさ》だと気がついた。  怪物《かいぶつ》だ!  きっとその時、ボクの眼《め》は好奇心《こうきしん》で輝《かがや》いていたと思う。もちろん心臓《しんぞう》が凍《こお》りつくほどこわかったけど、それよりも生まれて初めて目にする驚異《きょうい》に興奮していた。どきどきしながら、気づかれないよう、息を殺して観察した。  すごい! すごい! すごい!  怪物はどうやら向こうの山の方をぼんやりと眺《なが》めているようだった。もの思いにふけってる、という感じだった。どのぐらいそうしていたか、ボクの時間の感覚はあいまいで、よく分からない。食い入るように見つめながら、決して忘《わす》れまいと、怪物の特徴《とくちょう》をしっかりと頭に焼きつけていた。  やがて怪物はゆっくりと体を反転させた。そいつの尻尾《しっぽ》を目にして、ボクはさらに驚《おどろ》いた。尻尾は太くて長く、たくさんの節があり、カブトムシの背中のように黒光りしていたのだ。先端《せんたん》には曲がった針《はり》があった——サソリの尻尾だった。  上からだと見えにくいけど、岩棚に面した斜面に、大きな穴《あな》が開いているようだった。そいつはその中に姿《すがた》を消した。  もっと見たかったけど、さすがに穴の中まで追いかけるほど無謀《むぼう》ではなかった。ボクは興奮が冷めないうちに、村まで駆《か》け戻《もど》った。息が切れて、咽喉《のど》がからからに渇《かわ》き、声もかすれてたけど、夢中《むちゅう》になって見たことを話して回った。この発見の喜びをみんなと共有したかったんだ。  誰も喜んでくれなかった。  友達からはホラ話だろうとからかわれた。村長をはじめ、大人たちも真剣《しんけん》に聞いてはくれなかった。確かに、コウモリの翼とサソリの尻尾のある獣なんて、いかにも子供《こども》が空想で生み出しそうな代物《しろもの》だ。疑われるのも無理はない。  放《ほう》っておいたら村が襲《おそ》われるかもしれない、みんなで討伐《とうばつ》隊を組織《そしき》しようと訴《うった》えたけど、やっぱり誰も関心を示《しめ》さなかった。だって、そんな怪物なんてボク以外に誰も見たことないし、村が怪物に襲われたって記録もないんだもの。危機感なんてあるわけない。ボクは崖まで案内すると言ったけど、みんな「忙《いそが》しい」とか「面倒臭《めんどうくさ》いよ」とか言ってしぶった。  ボクは気がついた。忙しいなんて口実だ。みんな怪物がいるってことを認《みと》めたくないだけなんだ——自分たちの平穏《へいおん》な生活がいつまでも続くことを望むあまり、その平和がいかに危《あや》ういものかを、知りたがらないんだ。  父さんにはこっぴどく怒《おこ》られた。なんでそんな山奥《やまおく》まで行ったんだと頭を叩《たた》かれ、山歩きを禁止された。ボクは後悔《こうかい》した。みじめな気分になった。みんなに話すんじゃなかった、見たものは胸《むね》のうちにしまいこんでおくべきだったんだと思った。  そんなものは忘《わす》れろ、と父さんは言う。でも、忘れられるわけがない。あれは空想でも幻《まぼろし》でもない。ボクは見たんだ。お話の中でしか知らなかった危険《きけん》と冒険《ぼうけん》の世界が、ボクたちの住む村のすぐ近くにあったんだ。なんて恐《おそ》ろしいんだろう——そして、なんて素敵《すでき》なんだろう!  ベッドに入ると、あいつの恐ろしい姿が頭に浮《う》かぶ。顔はよく見えなかったけど、きっと邪悪《じゃあく》で凶暴《きょうぼう》な顔つきに違《ちが》いない。あいつに襲われるところを想像《そうぞう》すると、ぞっとなった。同時にうきうきした。ボクは毎晩《まいばん》、眠《ねむ》りに落ちる前の空想の中で、剣を手にしてあいつと戦った。  結局、みんなに話したのは間違いじゃなかった。だって、そのおかげで、本物の冒険者がこの村にやって来たんだもの。 「やっぱりマンティコアですね」  話を聞き終えて、デインはおもむろに言った。 「じゃあ、本当だと……?」と父さん。 「ええ——あなたがたのどなたか、マンティコアのことをこの子に教えましたか?」  大人たちは顔を見合わせ、困惑《こんわく》した。無理もない。みんなマンティコアという名前さえ知らなかったぐらいだ。  デインは自信たっぷりにうなずいた。 「大人から教えられたわけでもないのに、この子の説明した怪物の特徴は、マンティコアのそれに一致《いっち》します。空想とは考えられませんね」 「そのマンティコアというのは」大人の一人が訊《たず》ねた。「危険な奴《やつ》なんですか?」 「かなり危険な魔獣《まじゅう》です。強力な暗黒魔法を使いますし、サソリの尾《お》には猛毒《もうどく》もあります。これまで村に現《あら》われなかったのは運がいい。はっきり言って、一|匹《ぴき》で充分《じゅうぶん》、この村を全滅《ぜんめつ》させられるでしょう」  デインの言葉に、大人たちは騒然《そうぜん》となった。ぎまあ見ろ、と内心、ボクは得意になった。ボクの言った通りじゃないか。 「そんなやつがどこから現われたんです?」 「実際《じっさい》に見てみないと断言《だんげん》できませんが、リゼットが見たのは地下|迷宮《めいきゅう》の一部でしょう。山を掘《ほ》って造《つく》られた古代王国時代の施設《しせつ》が、崖崩《がけくず》れで露出《ろしゅつ》したんです。それで閉じこめられていたマンティコアが出てこられるようになったのではないでしょうか」 「しかし、これまで被害《ひがい》は何も……」 「これまでのところはね。でも、この先、どうなるか保証《ほしょう》できません。何しろ暗黒神の手先ですから、何をやらかすか予想も……」  ここでなぜか、デインは不自然に言葉を濁《にご》し、サーラの方を見た。サーラはやっぱり無表情《むひょうじょう》で、大人たちの会話を無言で聞いていた。  そこから先は、少し退屈《たいくつ》な議論《ぎろん》が続いた。「これまで何も悪さをしなかったんだから、放っておいても害はないんじゃないか」と主張《しゅちょう》する村の大人たちに、デインは魔獣の危険|性《せい》をとうとうと説明した。姿形《すがたかたち》が恐ろしいだけじゃなく、人間なみの知恵《ちえ》があるもの、魔法を使うもの、いろいろな不思議な能力《のうりょく》を持つものもいるという。行商人の噂話《うわさばなし》や、吟遊詩人《ぎんゆうしじん》のサーガと違って、さすが本職《ほんしょく》の冒険者の言葉だけあって真実味があった。いつ村が襲われるか分からないという不安をかきたてられ、大人たちはだんだん怪物《かいぶつ》を退治しなければという意見に傾《かたむ》いていった。  ようやく彼らを雇《やと》うことが決まったものの、値段《ねだん》の交渉《こうしょう》はさらに退屈だった。この仕事がどれほど危険かを強調し、値段を釣《つ》り上げようとするデインと、出費をしぶる村の大人たち。一〇〇ガメル単位での攻防戦《こうぼうせん》が続いた。でもボクは、我慢《がまん》して聞いていた。父さんが「もう家に帰りなさい」と言い出すのを恐れた。  だって、この場には最後までいないといけなかったから——どうしても切り出さなければいけないことがあったから。  争点はサーラの存在《そんざい》だった。人数分の報酬《ほうしゅう》を払《はら》ってほしいと主張するデインに対し、なんでこんな子供《こども》の分まで払わなきゃならないのか、と村長たちはごねた。どう見てもただの荷物持ちじゃないか、と。  さすがに温厚《おんこう》なデインも気を悪くしたようだ。 「こう見えてもサーラはかなり使いものになります。決して荷物持ちじゃありません」 「その通り!」レグが声を張《は》り上げ、村の大人たちをにらみつけた。「こいつはあんたらの誰よりも強いぜ。あたしらといっしょに、いくつも修羅場《しゅらば》をくぐり抜《ぬ》けてきたんだ。嘘だと思うなら、一戦交えてみな。三秒で地面に転がされるぜ」  そう挑発《ちょうはつ》されたものの、大人たちの中にはサーラと戦ってみようと思う者は現われなかった。なんて意気地《いくじ》なし! ボクなら戦ってみたい。あの子がどれほど強いのか、確認《かくにん》したい。  結局、四人は各一〇〇〇ガメル、サーラは半人前だから半額《はんがく》と判断され、報酬は総額《そうがく》四五〇〇ガメルということで決着した。もちろん成功報酬だ。マンティコアを退治して、証拠《しょうこ》として体の一部を切り取って持ち帰らないと、お金は出ない。 「で、その崖のある場所なんですが……」  デインがそう言ったので、いいかげんしびれを切らせていたボクは、思い切って立ち上がった。 「ボクが案内します!」  みんなは驚《おどろ》いてボクを見た。 「ボクが案内します。案内したいの。いいでしょ?」  デインは困った顔をした。 「いや、地図を描《か》いてくれればいいんだが……」 「地図じゃだめだよ! すごくややこしいところにあるから、絶対《ぜったい》に迷《まよ》うって。ボクが案内した方が確実でしょ?」 「しかし、危険《きけん》が……」  父さんがおどおどと言いかけたのを、ボクはさえぎった。 「分かってるよ、そんなこと! でも、一回行った場所だから平気だよ。この人たちもいっしょだし」  ボクはデインたちに向き直った。 「ね、いいでしょ!? ボクも冒険《ぼうけん》につれてってよ!」 「おやおや」レグが苦笑《くしょう》し、隣《となり》に座《すわ》っているサーラを横目で見た。「なんか、前に同じような場面があった気がするねえ」  サーラはむくれたように顔をそむけた。  なるほど——ボクは了解《りょうかい》した。さてはこの子も、冒険につれて行ってくれってせがんだんだな。それをきっかけに、なし崩しにパーティに加わったってとこだろう。  だったらボクにだって希望があるわけじゃないか。  それからまたもや議論。女の子を危険な怪物退治に同行させていいものか。いや、確《たし》かに道案内は必要だ。場所を知っているのはリゼットだけなのだから。誰《だれ》か村の大人もついて行ったら? いやいや、足手まといが多くなるのはかえって面倒《めんどう》だ……。  デインたちも正直、ボクをつれて行きたくはないようだった。でも、ボクはあくまで「地図なんて描かない。つれて行ってくれないんなら場所は教えない」とだだをこねた。当たり前だ。本物の冒険者の冒険に同行できるなんて、こんな二度とないチャンスを逃《に》がしてたまるもんか!  結局、ボクのしつこさに、デインたちは折れた。「つれて行くのは迷宮《めいきゅう》の入口まで。中には入らない」という条件《じょうけん》で、ボクも妥協《だきょう》した。 「やったあ!」  ボクは躍《おど》り上がって喜んだ。おしとやかな女の子らしい振《ふ》る舞《ま》いなんて、もうすっかりどこかに行っちゃってたけど、ぜんぜん気にしてはいなかった。  翌朝《よくあさ》、ボクはデインたちを案内して、山の中に分け入った。  怪物が出るかもしれないというので、父さんたちは心配したけど、ボクにしてみれば、いつもの山歩きの延長《えんちょう》だ。それに、本物の冒険者といっしょに歩くのって、わくわくする体験だった。  鎧《よろい》を脱《ぬ》いでくつろいでいた昨夜と違《ちが》って、みんなしっかり武装《ぶそう》していた。レグはものすごく重そうな金属鎧《きんぞくよろい》を着て、太いフレイルを提《さ》げているのに、何の苦もなさそうに歩いている。他の四人はもっと軽そうな革鎧《かわよろい》。どれも傷《きず》や染《し》みがいっぱいついている。きっと数えきれないほどの危険をくぐり抜けてきたんだろうな。  サーラ以外の四人とは、すぐに親しくなれた。みんなおしゃべりの好きないい人たちだったから。歩きながら、彼らのやってきた冒険もいくつか聞かせてもらった。野盗《やとう》の隠《かく》れ家に突入《とつにゅう》して、誘拐《ゆうかい》された子供《こども》を助け出した話。ワイバーンを退治《たいじ》した話。アンデッドがうようよいる地下迷宮を探検《たんけん》した話……また聞きの噂話《うわさばなし》でも、大昔の出来事でもない、げんに体験した人たちの話だ。楽しくてたまらなかった。  デインとレグが夫婦《ふうふ》で、子供までいると聞かされたのには驚いた。だって、ぜんぜんお似合《にあ》いじゃないんだもの。て言うか、冒険者の問でも恋《こい》とか結婚《けっこん》とかあるんだと知って、意外な感じがした。  ただ一人、サーラとだけは打ち解《と》けなかった。歳《とし》が近いから話が合うかと思ったけど、ぜんぜんだめ。ひどく無口で、「君のやった冒険、話してよ」とせがんでも、ぶっきらぼうに「話すようなことじゃない」としか言わない。すぐに視線《しせん》をそらし、ボクをまともに見ようとしない。つきまとわれるのをうるさがってるようだった。なんて無愛想《ぶあいそう》な奴《やつ》!  それでもちょくちょく、何かが気になるらしく、彼はボクの方を見る。でも、その視線は昨夜と同じように、ボクじゃなく、ボクの背後《はいご》にある別のものを見ているような感じがした。  彼の視線がボクの身体《からだ》を貫《つらぬ》く。そのたびに何かいらいらするような、落ち着かない感じがした。  でも、変なのはサーラだけじゃないと、すぐに気がついた。ボクが彼を問い詰《つ》めていると、他の四人はわざとらしく話題を変えようとしてくるのだ。なんだかサーラの過去《かこ》に触《ふ》れられるのを嫌《いや》がっているみたい。  どうもこの子には秘密《ひみつ》がありそうだ——みんなの不自然な態度《たいど》が、かえってボクの興味《きょうみ》をかきたてた。  途中《とちゅう》、小川のそばで小休止した時に、ミスリルはボクの前でフードをはずした。あらかじめ「驚《おどろ》くなよ」と注意されていたのに、ボクは息が止まりそうなほど驚いた。彼の肌《はだ》は炭《すみ》のように黒かったんだもの。ダークエルフの血が混《ま》じってるせいだという。誤解《ごかい》を招《まね》かないように、普段《ふだん》は顔を隠してるんだそうだ。ボクを信頼《しんらい》して、素顔《すがお》を見せてくれたのだ。  最初はこわくて口も利《き》けないほどだったけど、彼が「ないしょだぜ、お嬢《じょう》ちゃん」と言って、おどけてウインクしたので、ボクの警戒心《けいかいしん》はあっさり解けた。こんな人が悪い人であるはずがない。  ボクは他《ほか》のみんなとは少し離《はな》れた河原《かわら》で、ミスリルに自己流の剣さばきを見てもらった。想像《そうぞう》上の怪物《かいぶつ》に向かって、木の棒《ぼう》を「えい。やあ」と振り回す。ミスリルは「見ちゃいられねえなあ!」と笑った。 「そんなへっびり腰《ごし》じゃあ、年寄りのコボルドも倒《たお》せないぜ。いいか——」  彼はダガーを貸《か》してくれた。小さいけれど、これまで何度も実戦で使われ、多くの敵《てき》の血を吸《す》ってきた武器《ぶき》だという。それを使って、ボクに正しい武器の扱《あつか》い方を伝授《でんじゅ》してくれた。柄《つか》の握《にぎ》り方、体全体を使って勢《いきお》いよく踏《ふ》みこむやり方、突《つ》き立てる瞬間《しゅんかん》の体重のかけ方、攻撃《こうげき》したら即座《そくざ》に後退して敵の反撃《はんげき》を避《よ》けるやり方……ボクが想像していた剣の振るい方とはずいぶん違う。 「そりゃそうさ。これは盗賊《とうぞく》流の戦い方だからな。身軽な動作で相手の攻撃をかわしまくりながら、隙《すき》を見てふところに飛びこんで、急所めがけて素早《すばや》く一撃——戦士の剣の使い方とはぜんぜん違う」 「あんまりかっこ良さそうじゃないなあ」ボクは正直に感想を言った。 「だが、力のない子供にはうってつけだ。覚えておいて損はないさ。悪い奴に襲われることがあるかもしれないからな」 「でも、ボクはやっぱり、剣をぶんぶん振《ふ》り回したいよ」ボクは口をとんがらせた。 「レグに教えてもらった方がいいのかなあ……?」 「よせよせ。レグのフレイルなんて、お前さんの細い腕《うで》じゃあ、持ち上げることもできないぜ」 「デインのレイピアなら?」 「そうだなあ」ミスリルはボクの腕をしげしげと観察した。 「女の子にしちゃあ鍛《きた》えてる方だが、それでも鎧を着て長物を振り回すのは難《むずか》しそうだな。それに、剣さばきにしても、小盾《バックラー》で敵の攻撃を受け流すのも、それなりに練習が要《い》るんだぜ」 「何日も?」 「何か月もさ」  なるほど、素人がすぐに実戦に出られるわけじゃないってことか。まあ、当然といえば当然だけど。 「じゃあ、サーラはどうなのさ?」 「あいつは盗賊ギルドでたっぷり修行《しゅぎょう》を積ませて、基本《きほん》は叩《たた》きこんである。俺《おれ》もずいぶん教えたしな」 「でも、最初は素人だったんでしょ?」 「まあな」 「じゃあ、どうしてみんなといっしょに冒険《ぼうけん》するようになったの?」 「まあ、それはいろいろあってな……」ミスリルは言葉を濁《にご》した。 「ねえ」ボクは笑顔《えがお》で詰《つ》め寄った。「ひょっとして、ボクと同じ? やっぱりどこかの村の子でさ、『冒険につれてって』ってせがんだわけ?」  ミスリルはどきっとした様子で、わずかに顔を曇《くも》らせた。図星だな。 「じゃあ、ボクも頼《たの》めば——」 「だめだ」ミスリルはぴしゃりと言った。 「どうして? ボクが女の子だから?」 「そうじゃない。サーラで懲《こ》りてるんだ」 「懲りてる?」  ミスリルは離《はな》れた場所で休んでいるサーラにちらっと目をやり、声をひそめた。 「……正直、あいつを仲間にしたのは間違《まちが》いじゃないかと思ってる」 「素質《そしつ》がないってこと?」 「いや、あいつは素質はある。まだ若《わか》いけど、筋《すじ》はいい。頭は回るし、度胸《どきょう》もある。もっと経験《けいけん》を積めば、俺たち以上に伸《の》びるんじゃないかと思う」 「だったら何? 性格《せいかく》が悪い?」 「いや。いい奴《やつ》さ。これ以上ないってぐらいにな」  そうは見えないけど。 「じゃあどうして?」 「まあ……いろいろあったのさ」 「何が? どんなことがあったの?」  ボクの追及《ついきゅう》は、ミスリルをすっかり困らせたようだった。 「すまん。関係ない人間には、これ以上話せない」  そう言って話を打ち切ると、彼は仲間のところに戻っていった。友達になったつもりだったけど、ミスリルたちから見れば、ボクはやっぱり「関係ない人間」なのか。ちょっとがっかりした。  それにしても、「仲間にしたのは間違い」とは……あのサーラって奴は、いったい何をやったんだ? よほど大きなドジ? それとも何か悪いこと? ボクはサーラのことが気になってしょうがなかった。  前に残してきた目印のおかげで、迷うことはなかった。途中《とちゅう》で何度か休憩《きゅうけい》して、山道を登ったり降《お》りたり、二時間近くも歩き続けると、森が途切れ、崖《がけ》の上に出た。  ボクは前と同じように、地面を這《は》って崖っぷちに近寄《ちかよ》り、下を覗《のぞ》きこんだ。記憶《きおく》とほとんど変わらない光景が広がっていた。あの岩棚《いわだな》も、崩《くず》れずにちゃんとある。 「あれだよ」ボクは下を指差した。「あそこから怪物《かいぶつ》が出てきたんだ」 「どれ」  デインがボクの横に立ち、崖下を見下ろした。すごいな、とボクは思った。この人は地面に手をついてもいないし、草をつかんでもいない。ボクと違って、崖がこわくないらしい——それともボクと同じように、危険《きけん》なことに魅了《みりょう》されているのだろうか? 「あれが君の言ってた岩棚だね?」 「うん。あそこに立ってたんだ。ずっと向こうを見てたから、こっちには気がつかなかったけど」 「風は向こうからこっちに吹《ふ》いてたんだろうな?」  ミスリルが思いがけない質問をした。ボクはちょっと考えて、思い出した。あの時、下からの風が髪《かみ》をかき上げていたことを。 「うん。下から上に吹いてた」 「幸いだったな。こっちから吹き下ろしてたら、お前さんの匂《にお》いに気づかれてたかもしれない。見つかってたら命はなかったぜ」 「でも、この崖をここまで上がってこれる?」 「そりゃあ、翼《つばさ》があれば飛べるだろう」 「そうかあ……」  ボクは自分が危機|一髪《いっぱつ》だったことを知って、ぞくっとなった——そしてまた、その事実にわくわくした。ボクはもう、けっこうすごい冒険をやってたんじゃないか!  デインは「うーむ」と考えこんだ。 「やっぱり、あのテラスみたいなのは、地下|迷宮《めいきゅう》の一部だな。だが、あそこまでどうやって降りるか……」 「ロープで降りられなくはないぜ」とレグ。 「うん。だが万が一、逃げる時のことを考えると……」 「ああ、ロープを登って逃げたくはないな。斜面《しゃめん》を駆《か》け降りる方がまだましだ」  ボクは感心した。さすが冒険者、いろんな事態《じたい》を想定してる。  結局、いったん崖の下まで降り、岩棚まで登ることになった。ボクたちは崖っぷちに沿って横に進み、降りられる道を探《さが》した。 「逃げる時のことまで考えなきゃいけないんだね」とボクが言うと、レグが「当たり前だろ」と笑った。 「後先考えずに無謀《むぼう》に突《つ》き進むのが冒険《ぼうけん》じゃないぜ。危《あぶ》なくなったら逃げるのも大事だ」  女戦士らしくない言葉に、ボクは困惑《こんわく》した。もちろん理屈《りくつ》は分かる。命を粗末《そまつ》にしちゃいけないってことは。でも、死ぬかもしれないと分かってても、あえて危険に挑《いど》むのが冒険ってもんじゃないの?  そう訊《たず》ねると、デインたちは苦笑した。 「そう考えてるうちは冒険者になれないかもな」 「どうして?」 「冒険者の最大の目標は何だと思う、リゼット?」 「ええと、財宝《ざいはう》を見つけて……」 「違《ちが》うよ。どんなすごい財宝を見つけようと、死んだら何にもならない。冒険者の最大の目標は『生き残ること』さ。死んだら冒険は失敗だ。だろ?」 「そりゃまあ……」 「財宝は見つからなくても、生き残ってればまた冒険はできる。つまり、どんな財宝よりも、生き残ることの方が価値《かち》がある。だから僕《ぼく》らは常《つね》に、生き残ることを考えてる。慎重《しんちょう》に考えて、可能《かのう》な限《かぎ》り危険の少ない道を逼ぶんだ」  そういう考え方があるのか。冒険というものを、単に危険に挑むことだと、漠然《ばくせん》としか思い描《えが》いていなかったボクは、本物の冒険者の考え方に触れて、少しだけ大人に近づいた気がした。  少し回り道はしたものの、ボクたちは崖下に到着《とうちゃく》した。崩れ落ちた土が森を埋《う》めて、狭《せま》い空き地になっていた。崖崩れが起きたのは何か月も前らしく、背《せ》の低い雑草《ざっそう》がまだら模様に生えている。  上から見た時はよく分からなかったけど、問題の岩棚は意外に低く、二階家の屋根ぐらいの高さにあった。思った通り、壁面《へきめん》には黒々と四角い入口が開いている。壁《かべ》も天井《てんじょう》も四角く切り出された石で支《ささ》えられていて、人が造《つく》った洞窟《どうくつ》なのは明らかだった。  岩棚の下には滑《すべ》り落ちた土が斜《なな》めに積もっていて、斜面は上の方よりなだらかになっていた。歩いて登ることはできそうだった。ミスリルが一人でさっさと登り、穴《あな》の奥《おく》を覗いて敵がいないことを確認《かくにん》してから、下にロープを垂《た》らした。重そうな装備《そうび》のレグやデインも、ロープを伝っていけば簡単《かんたん》に登れるわけだ。 「じゃあ、リゼット。しばらくここで待っててくれ」とデイン。「一人で村まで帰すのも無責任《むせきにん》だしね。帰りも僕らが送って行くよ」 「そうじゃなくてさ……」  ボクは眼《め》をまん丸く見開き、精《せい》いっぱい子供《こども》っぽいしぐさで、デインの腕《うで》にしがみついて甘《あま》えた。 「ねえ、いっしょに中に入っちゃだめえ?」  自分でもひどくわがままだと思う。でも、ここまで来て、冒険者が魔獣《まじゅう》と戦う場面が見られないなんて、つまらないじゃない。 「だめだよ」デインは微笑《ほほえ》みながら、でもきっぱりとした口調で言った。「約束だろ? 君がついて来るのは迷宮の入口まで。中には入らないって」 「だって……」 「言っただろう? 魔獣は危険《きけん》なんだよ。僕らだって命が危ないんだ」 「でも、みんな強いんでしょ? 魔獣なんかあっさりやっつけちゃう自信があるから中に入るんでしょ? 冒険者は無謀なことなんかしないって、さっき、デインもレグも言ったじゃない」  二人は「しまった」というように顔をしかめた。 「ねえ、リゼット、これは遊びじゃないのよ」フェニックスも優《やさ》しく諭《さと》そうとする。「確《たし》かに私たちはマンティコアぐらいなら倒《たお》せるわ。でも、戦いはきびしいものになる。大怪我《おおけが》だってするわ」 「でも……」 「分かって。私たちは自分の身を守るので精いっぱいなの。あなたまで守りきる自信はない……」  そう言って彼女は、なぜか横目でちらっとサーラの方を見た。彼はやっぱりぶすっとして、そっぽを向いている。 「その通りだ」デインはうなずく。「僕たちは素人《しろうと》まで連れてゆく余裕《よゆう》はない」 「そういうことだよ、お嬢《じょう》ちゃん」とレグ。「悪いけど、ここで待ってな」 「ずるいよ!」ボクは大声を上げた。「じゃあ、サーラはどうなのさ! 最初は素人だったんじゃないの!? それとも最初の冒険の時も、やっぱり洞窟の入口で待ってたの!?」  みんなが動揺《どうよう》するのが、はっきりと分かった。やっぱりそうだ。サーラも最初はこうやってだだをこねたに違いない。 「だったらボクだって——」 「いい加減《かけん》にしろ!」  いきなりサーラが振《ふ》り返って大声で怒鳴《どな》ったもんで、ボクはびっくりした。デインたちもぎょっとしている。 「僕を……僕を基準《きじゅん》に考えるな」  サーラはなぜか、泣きたいのをこらえているような表情《ひょうじょう》をしていた。その顔で見つめられ、ボクはとまどった。変に胸《むね》がどきどきした。何なの、こいつ。どうしてボクをそんな顔で見るの……?  きっとその顔は見られたくなかったのだろう。サーラは急に背を向けた。 「……にしたくない」  そうささやいた声はとても小さくて、一部はよく聞き取れなかった。でも、ボクは問い返せなかった。サーラの様子はなんだかとても真剣《しんけん》で、子供っぽいだだが通るような雰囲《ふんい》気じゃなかったから。  ボクが沈黙《ちんもく》したので、デインたちは納得《なっとく》したものと思ったようだ。 「じゃあ、待っててくれ。なるべく早く片付《かたづ》けて戻《もど》る」とデイン。「もしかしたら魔獣が外をうろついてるかもしれないから、森の中にでも隠《かく》れてるといい。陽《ひ》が西に傾《かたむ》いても戻らないようだったら、一人で村に帰るんだ。いいね?」  ボクはおとなしくうなずくしかなかった。  ボクはそれからずっと崖《がけ》の下で待っていた。太陽が高く昇《のぼ》ってくるとお腹《なか》が空《す》いてきたので、父さんが持たせてくれたパンをかじった。 「ちくしょうめ……」  パンを食いちぎりながら、ボクは毒づいた。サーラのあの顔を思い浮《う》かべるたびに、なぜか胸がぎゅっとなった。その苦しさを、ボクはあいつに対する敵意《てきい》だと解釈《かいしゃく》した。  そう、あいつは癪《しゃく》に障《さわ》る。ボクはいっしょに行けなかったっていうのに、あいつは冒険《ぼうけん》に同行させてもらってる。危険だから素人はついて来るな? 自分だって最初はボクと同じだったくせに!  何がだめなの? ボクが女だから?  パンを食べ終わると、もやもやした気分を晴らそうと、来る途中《とちゅう》で拾った棒《ぼう》を握《にぎ》りしめ、空き地で振り回しはじめた。森の中に隠れてろっていうデインの指示なんて無視《むし》した。 「やあ! この! えい!」  ミスリルが見たらまた「なっちゃいない」と笑うだろう。分かってるよ、ボクのやってることがしょせん子供の遊びだってことは。現実《げんじつ》の戦士の剣の振るい方はぜんぜん達《ちが》うだろうってことも。冒険者の日常《にちじょう》がボクの思い描《えが》いているようなものじゃないだろうってことも。吟遊詩人《ぎんゆうしじん》のきれいごとのサーガと違って、きっと地味な努力もたくさんしなくちゃいけないし、つらいことも悲しいこともたくさんあるんだろうってことも。  そうさ、分かってるんだ。自分のやってることが幼稚《ようち》だと気づかないほど、ボクは子供《こども》じゃない。  じゃあ、どうすればいい? 子供のごっこ遊びと現実の冒険者の間の大きな溝《みぞ》を、どうやって飛び越《こ》えればいい? 夢《ゆめ》をどうやって現実にすればいい? その最初の一歩をどう踏《ふ》み出すべきか、ボクには分からない。 「ええい! くたばれ!」  見えない敵の脳天《のうてん》めがけて、棒を力いっぱい振り下ろす。何度も、何度も。敵はマンティコアでもオーガーでもゴブリンでもない。「現実」という名の、形のない、それでいて強い怪物《かいぶつ》だ。形がないから倒《たお》し方も分からない。だからいっそう、いらいらする。  どうやって冒険者になったのか、サーラに訊《き》きたかったのに、彼は答えてくれない。それどころか、冒険に憧《あこが》れるボクの気持ちを嫌《いや》がっているように見える。なぜだろう? きっとあいつだって、ボクと同じように、憧れて冒険者の道に進んだに違いないんだ。それなのにどうして、同じ夢を抱《いだ》いているボクを否定《ひてい》するんだろう。  あいつ、最後に何と言ったっけ? 小さくて聞き取りにくかったけど。 『君を二の舞《まい》にしたくない』  そう言ったように思えた。誰の二の舞? 誰かが前に、魔獣《まじゅう》に殺されたか何かしたってこと?  だからボクを危険《きけん》に巻きこみたくない? だったら、そんな謎《なぞ》めいた言い方しないで、はっきりと言ってくれればいいじゃないか。いったい何を隠してるんだろう。隠さなきゃならないほどのおぞましい話なんだろうか。  いまいましい。ほんと、サーラって奴《やつ》には腹が立つ。きれいだけど影《かげ》のある顔、つっけんどんな態度《たいど》、謎めいた言葉——そのひとつひとつが、無性《むしょう》に胸を熱くする。パンを食べたばかりだというのに、餓《う》えに似《に》た奇妙《きみょう》な感覚を覚える。  こんな気持ち、生まれて初めてだ。  ボクはふと、気配を感じた。はっきり音が聞こえたわけじゃない。気配としか言いようのない、あいまいな感覚。地下|迷宮《めいきゅう》の入口の方からだ。ボクは岩棚《いわだな》を振《ふ》り仰《あお》いだ。  その瞬間《しゅんかん》、魔獣が穴《あな》から飛び出してきた。  猛烈《もうれつ》な勢《いきお》いで突進《とっしん》してきたそいつは、明るさに目がくらんだのだろうか、岩棚の縁《ふち》で急停止しようとして、足を踏みはずした。勢《いきお》いよく前に転げ落ちる。ボクは仰天《ぎょうてん》した。その翼《つばさ》にはサーラがしがみついている!  マンティコアは土煙《つちけむり》を立てながら、斜面《しゃめん》をごろんごろんと派手《はで》に転がり落ちてきた。奇妙なことに、何の音もしない。そのせいで夢の中の出来事のように現実味が欠けていた(音を封《ふう》じる魔法をミスリルにかけられていたんだということを、ボクは後で知った)。  サーラは途中で振り飛ばされた。大きく弧《こ》を描いて飛び、雑草《ざっそう》の生えた地面に背中《せなか》から叩《たた》きつけられる。うわっ、痛《いた》そう!  ボクは駆《か》け寄《よ》ろうとした。でも、ボクとサーラの間にマンティコアが転げ落ちてきた。近くで見るとものすごく大きい。若《わか》い牛ぐらいはある。いったん倒れて、脚《あし》と尻尾《しっぽ》を空中でばたつかせたものの、じきに起き上がってきた。ひどい傷《きず》を負っていて、体のあちこちから血を流している。右の翼はだらんと垂《た》れ下がっていたし、左の後ろ脚も不自由なようだった。  そいつはまだボクに気がついていないようだった。傷ついた左の後ろ脚をひきずりながら、よたよたとサーラに近づいてゆく。サーラはうめきながら、手足を弱々しく動かしていた。痛みで起き上がれないらしい。  ボクは恐怖《きょうふ》で麻痺《まひ》して、その光景を見つめていた。サーラのすぐそばまで来ると、怪物は太くて長い尻尾を高々と掲《かか》げた。ムカデのように黒光りするその表面には、毒々しい赤い紋様《もんよう》があった。その先端《せんたん》の曲がった毒針《どくばり》は、陽《ひ》の光を浴び、ぬらぬらと光っている。それを今にもサーラに突《つ》き立てようとしていた。  麻痺が解《と》けた。サーラを助けなければという強い想《おも》いが、恐怖に打ち勝った。ボクは棒《ぼう》きれを手にして突進した。  怪物の尻尾に向かって棒を叩きつけた。軽くはじき返される。でも、注意を惹《ひ》くことはできた。そいつは邪魔臭《じゃまくさ》そうに振り向き、ボクを見た。ボクは初めてそいつの顔をまともに目にした。  震《ふる》え上がった——なんていう恐《おそ》ろしい顔! 人間の、それもおじいさんにそっくりだけど、ひどく醜《みにく》くて、人間の頭よりひと回り大きい。それが獣《けもの》の体にくっついている。血にまみれたロを大きく開け、嘲笑《あざわら》っているような顔でボクを威嚇《いかく》する。口の中には鋭《するど》い牙《きば》が生えていた。  ボクは泣きそうになった。恐怖で膝《ひざ》の力が抜《ぬ》け、尻餅《しりもち》をつきそうになった。でも、どうにかこらえた。やけくそになって、棒を尻尾に向けて何度も叩きつけながら叫《さけ》んだ。 「サーラ! サーラ! しっかりして、サーラ!」  でも、サーラは起きない。気を失ったんだろうか。ボクはさらに胸《むね》が苦しくなった。お願い、死なないで。死なないでよ、サーラ……。  夢中《むちゅう》になってでたらめに棒を振り回す。怪物はゆっくりとボクに向き直った。口が動いて、何かを喋《しゃべ》ったように見えたけど、やっぱり音がしない。尻尾の毒針は、今やボクを標的にしていた。こんな棒きれなんかでかなうわけがない。逃げることもできただろう。怪物は脚を怪我《けが》していたから、全速力で走れば逃げ切れたかもしれない。  でも、ボクは逃げなかった。こわくて、こわくて、こわくて、ものすごくこわくて、逃げ出したくてたまらなかったけど、棒をかまえて踏《ふ》みとどまった。ボクがいなくなればサーラは殺される。自分が殺されるのは嫌《いや》だけど、ボクが逃げたせいでサーラが殺されるのは、もっと嫌だった。  冒険者《ぼうけんしゃ》は無謀《むぼう》なことはしない——それがどうした。ボクは冒険者じゃないんだ。ただの女の子だ。だったら無謀なことをやったってかまわないじゃないか!  そう考えると勇気が湧《わ》いてきた。同時に、わくわくしてきた。これまで、ごっこ遊びの中で味わってきた架空《かくう》の危険と違《ちが》う、正真|正銘《しょうめい》、本物の危険。ボクは今、死の縁にいる。次の瞬間には毒針で胸を刺《さ》し貫《つらぬ》かれ死ぬかもしれない——ああ、ものすごく恐ろしくて、たまらなく楽しい!  その時、怪物《かいぶつ》の口から初めて声が洩《も》れた(魔法《まほう》の効果《こうか》が切れたのだ)。低音で気味の悪い声。ボクの知らない言葉だったので、何を言っているのか分からない。でも、口を歪《ゆが》めてにやりと下品に笑った様子からすると、だいたい察しはつく。「うるさい奴だ。お前から先に血祭りに上げてやる」とか何とか言ってるに違いない。  マンティコアは暗黒魔法を使うという。これから呪文《じゅもん》を唱えようというのか。ボクを魔法で殺す気なのか。ボクは魔法でずたずたにされて死ぬのか。それでもかまわない。逃げて卑怯者《ひきょうもの》になって、一生|後悔《こうかい》して暮《く》らすより、サーラを守って死んでやる……。  そう決意したまさにその時、上の方で人の声がしたかと思うと、マンティコアは急に動かなくなった。  ボクはびっくりして振《ふ》り仰《あお》いだ。岩棚《いわだな》の上にフェニックスが立って、こちらに手を差し伸《の》べていた。 「今よ!」と叫ぶ。同時に、ミスリル、デイン、レグが、斜面《しゃめん》をなかば滑《すべ》るように駆け降《お》りてくる。  これも後で知ったのだけど、追いかけてきたフェニックスが、ボクとサーラの危機を見て、「麻痺《パラライズ》」という呪文をかけたのだった。敵の動きを封《ふう》じこめるというものだ。  マンティコアは小さく身震いし、低い苦悶《くもん》のうなり声をあげていた。魔法の束縛《そくばく》から逃《のが》れようともがいているのだろう。でも、フェニックスの魔法は完全にマンティコアを捕《とら》えていた。もう怪物は逃げることも戦うこともできない。降りてきたミスリルたちがその周囲を取り囲む。  その後に起きたことは、一方的な虐殺《ぎゃくさつ》だった。ミスリルはダガーで刺しまくる。デインはレイビアでめったやたらに斬《き》りつける。レグは重いフレイルで乱打《らんだ》する。マンティコアは何の抵抗《ていこう》もできないまま、無残に傷ついていった。三人も派手《はで》に返り血を浴び、ひどい有様になってゆく。 「くらえ!」  レグのとどめの一撃《いちげき》が怪物の頭に炸裂《さくれつ》した。嫌な音がして、液体《えきたい》が飛び散り、頭が深く陥没《かんぼつ》するのが見えた。 「もういいぞ、フェニックス」  レグがぜいぜいと呼吸《こきゅう》しながら言った。フェニックスが魔法を解《と》くと、マンティコアはがくんと地面に崩《くず》れ落ちた。もう呼吸をしていなかった。 「だいじょうぶか?」  ミスリルが心配してボクに声をかけた。ボクはまだ頭がぼうっとしていて、かくかくとあやつり人形のようにうなずいた。デインは倒れているサーラに駆《か》け寄《よ》って、治癒の呪文を唱えていた。 「サーラ! しっかりしろ、サーラ!」  デインが揺《ゆ》さぶると、サーラは目を覚ました。傷《きず》はすっかり治ったようだ。ボクはほっとした。良かった。サーラは無事だった……。 「デイン……?」 「立てるか?」  デインの手を借りて、サーラはよろめきながら立ち上がった。呆然《ぼうぜん》と周囲を見回す。何が起きたのか、まだよく理解《りかい》できていないようだ。 「てめえ!」  ミスリルが興奮《こうふん》してサーラに駆け寄った。デインが「よせ!」と言って止めようとしたけど、それを振り払《はら》って、サーラの胸《むな》ぐらをつかむ。 「どういうつもりだ!? あんな馬鹿《ばか》なことをやって! 死にたいのか!?」  サーラは何も言わない。気まずそうに目をそらせるだけだ。それを見たミスリルはなぜか動揺《どうよう》した様子で、つかんでいた手をゆるめる。 「……倒せたんだから、いいじゃない」  感情《かんじょう》のこもっていない声でサーラは言った。ミスリルはそれ以上、追及《ついきゅう》できないようだった。  ボクたちが持ち帰ったマンティコアの首を見て、村のみんなは驚《おどろ》き、納得《なっとく》した。ボクの話はすべて真実だったと証明《しょうめい》された。  約束通り、デインたちには報酬《ほうしゅう》が支払《しはら》われることになった。四五〇〇ガメルといえばボクの感覚からすれば大金だ。もっとも、フェニックスがマンティコアを倒すのに魔晶石《ましようせき》とかいうものを使ったとかで、出費も大きかったらしい。迷宮《めいきゅう》の中では財宝《ざいほう》は何も見つからなかったので、たいした儲《もう》けにはならなかったと、ミスリルはぼやいていた。  その夜、村の脅威《きょうい》が去ったのを祝って、宴《うたげ》が開かれた。集会所の前の広場で火が焚《た》かれ、牛を一頭つぶして、その肉が焼かれた。冒険者たちにはとっておきのお酒が振る舞われた。大人も子供《こども》もうかれて、歌い踊《おど》った。村がこんなににぎやかになるのは、収穫祭《しゅうかくさい》の時ぐらいのものだ。  ボクも食べたり騒《さわ》いだりしながら、合間にちらちらとサーラの様子をうかがっていた。馬鹿騒ぎの中で、サーラだけは沈《しず》んでいた。黙々と肉を口に運ぶだけで、ろくにしゃべりもしない。逃げる怪物《かいぶつ》にしがみつくなんて無謀《むぼう》なことをやって、ミスリルに叱《しか》られたので、落ちこんでるんだろうか。  やがて彼はそっと席をはずした。お手洗《てあら》いに行くのかと思ったが、なぜか裏山《うらやま》の方に歩いてゆく。ボクは気になって後を追った。  彼は森の中に入っていった。暗い小道をぶらぶらと歩いてゆく。ボクは足音を忍《しの》ばせようとしたつもりだったけど、落ち葉や枯《か》れ枝《えだ》を踏《ふ》む音はごまかせなかった。村からさほど離《はな》れないうちに、サーラは振り向き、ボクに気がついた。 「君か」 「どこに行くの?」 「別に」肩《かた》をすくめて、「ちょっと一人になりたかっただけさ——君こそ、どうして尾《つ》けてきた?」  ボクは覚悟《かくご》を決めた。ごまかすのは性《しょう》に合わない。こうなったら当たって砕《くだ》けろだ。 「君と話したかったの」 「僕《ぼく》は話すことなんてない……」 「ボクが話したいんだよ! どうしても訊《き》きたいことがあるんだ!」  サーラはボクの剣幕《けんまく》にあっけに取られたようだったけど、やがてあきらめたらしく、道ばたに腰《こし》を下ろした。 「いいよ。話そう」  ボクはおずおずと近づいていき、彼の横に腰を下ろした。胸《むぬ》がどきどきしていた。  ボクはまだ子供だった。馬鹿だった。でも、このどきどきの意味に気がつかないほど子供でもなかった。生まれて初めて味わう感覚だったから、気がつくのに時間がかかったというだけ。彼がマンティコアに殺されそうになった時、ボクは気がついた。胸がぎゅっとなる感じは敵意《てきい》じゃなかったということに。出会って一日にもならないというのに、彼がいつの間にか、ボクにとって特別な存在《そんざい》になっていたということに。  ボクも女の子だったということに。 「ボク、冒険者《ぼうけんしゃ》になりたいんだ」  いきなり本題を切り出すのはどうかと思ったので、当たり障《さわ》りのないことから話しはじめた。サーラは即座《そくざ》に「やめとけ」と言った。 「冒険者なんて……」 「汚《きたな》いし、きびしいし、危険《きけん》だし、つらいこともいっぱいあるって言うんでしょ? 分かってるよ、それぐらい」 「いや、君には分かってない。実際《じっさい》に体験してないじゃないか」 「まあね。確かにボクはまだ、そんな体験なんかしてない。でも、理想と現実《げんじつ》が違うことぐらい分かるよ。分かってても、なりたいんだ——君だってそうでしょ? きびしい仕事だと知ってて、それでも冒険者になるのを選んだんでしょ?」  サーラは答えに詰《つ》まった。 「ボクもそうだよ。先に何があるか分からない。危険な体験もいっぱいするだろうし、それこそ死ぬかもしれない。でも……」  がクは小さく、でも力強くささやいた。 「やってみたい」  それからしばらく、ボクたちの間に沈黙《ちんもく》が下りた。サーラは黙《だま》りこんで、何か考えているようだった。  無言の時間が長引くにつれ、だんだん息が詰まってきた。ボクは自分を叱責《しっせき》した。こんなことを話しに来たんじゃないだろ、リゼット。本題に入らなきゃ。 「ねえ……」  勇気をふるって、単刀直入に訊《たず》ねた。 「……好きな女の子、いるの?」  そう言ったものの、答を聞くのがこわかった。マンティコアに殺されそうになった時と同じぐらい。返事を聞きたくなくて、耳をふさぎたかった。  サーラは答えなかった。  その沈黙は、ボクには「イエス」と聞こえた。がっくりきたけど、まあ当然だろうと思った。こんなに顔がいい男の子なら、親しい女の子ぐらいいてもおかしくない。  でも、まだボクが割《わ》りこめる隙《すき》がないと決まったわけじゃない。ひょっとしたら、そんなに親しい関係じゃないのかもしれない。ボクは見知らぬライバルのことをもっとよく知りたいと思った。 「その子って、ボクに似《に》てる?」 「顔は……」サーラは小声で言った。「……ちょっとだけ」 「似てるの?」 「でも、それ以外はぜんぜん。デルは君と似てない。君みたいにおしゃべりじゃない……」  しまった、おしゃべりは好みじゃなかったか。 「彼女は無口で、おとなしくて、でもとっても情熱《じょうねつ》的で……時にはわがままで……だけど優《やさ》しくて……」  その声が急に、涙《なみだ》で詰まった。 「……いい子だった」  だった——過去《かこ》形。  サーラは静かにすすり泣きはじめた。ああ、そうか。ボクはようやく理解《りかい》した。そのデルっていう子は死んだんだ。たぶん迷宮《めいきゅう》の中で魔獣《まじゅう》に殺されて。ボクを二の舞《まい》にしたくないって、そういう意味だったんだ。  彼はまだ、その子のことが忘《わす》れられないんだ。  どうしよう、どうしよう。すすり泣くサーラを見て、ボクはうろたえた。彼の心の傷《きず》に触《ふ》れてしまった。つらい過去を思い出させてしまった。どうすればこの失敗を償《つぐな》える? どうすればこの涙を止められる? 「ねえ、ボクじゃだめ?」ボクは夢中《むちゅう》で口走っていた。「ボクじゃ代わりにならない? 分かってる、その子のことを忘れられないのは。忘れろなんて言わない。でも——でも、せめて……」  そこから先はどう言っていいか分からなかった。ボクの舌は不器用だ。吟遊詩人《ぎんゆうしじん》みたいに恋《こい》の言葉なんてつむげない。言葉じゃどうにも、この想いを伝えられない。  思い切って彼に抱《だ》きつき、キスをした。もちろん、生まれて初めてのキスだ。想いを伝えるのにこれしかなかったから。他《ほか》に方法が考えられなかったから。  突《つ》き放されるかと思ったけど、意外なことに、彼は抱きしめ返してきた。その勢《いきお》いは予想外に強くて、ボクは草むらに押《お》し倒《たお》された。彼は唇《くちびる》をがむしゃらに押しつけてきた。もっとびっくりしたのは、舌が口の中に入ってきたことだ。キスって唇を合わせるだけのものだと思ってたのに。  そればかりか、彼がボクの服のボタンに手をかけてはずしはじめたので、ボクはすっかり混乱《こんらん》してしまった。  え? いきなりそこまで行っちゃうの? そんな。心の準備《じゅんび》ができてないよ。  ボクは身動きできなかった。彼はボタンを次々にはずしていった。ボクの胸《むね》があらわになってゆく。まるで「女戦士の危機」ごっこの一場面。でも、これは遊びじゃなく、現実に起きていること。ああ、ボクは怪物《かいぶつ》に食べられようとしている。邪神《じゃしん》の生贄《いけにえ》にされようとしている。崖《がけ》から落ちそうだ。こわいよ。こわいよ。マンティコアににらまれた時だって、こんなにこわくなかったよ。ああ、こわい、こわい、こわい、泣き出しそう。ものすごくこわくて、こわすぎて……。  たまらなく素敵《すてぎ》だった。  ボクは草をぎゅっと握《にぎ》りしめ、眼《め》を閉《と》じて恐怖《きょうふ》に酔《よ》い痴《し》れながら、されるがままになっていた。彼の指が蛇《へび》のようにボクの体を這《は》い回るのを感じる。ものすごい高さの崖っぷちに立ったかのように、深い谷底に吸《す》いこまれそうな感覚にうっとりとなっていた。このまま落ちていってもかまわないと思った。この恐怖の極限《きょくげん》まで、サーラがつれて行ってくれることを望んだ。  だけど。 「デル……」  その言葉に、ボクは現実に引き戻《もど》された。サーラの指は止まった。おそるおそる眼を開けると、彼は中途《ちゅうと》半端《はんぱ》にあらわになったボクの胸を見下ろして、顔を歪《ゆが》めていた。 「ごめん……」彼はささやいた。「ごめん。こんなことするつもりじゃ……僕は……最低だ……」 「……いいんだよ」ボクはささやいた。「ボクはかまわない……」 「いや」彼は涙をぬぐい、きっぱりとかぶりを振《ふ》った。「だめだよ……君はデルじゃない」  そう言うと、彼は立ち上がり、「本当にごめん」と頭を下げて、村の方に駆《か》け戻っていった。  翌朝《よくあさ》、彼らは村を去り、ボクの初恋《はつこい》は終わった。  サーラたちが村を去って二週間後、ボクも村を出た。貯《た》めていたお小遣《こづか》いをかき集め、着替《きが》えを背負《せお》い袋《ぶくろ》に詰《つ》めこみ、両親には手紙を残して。  とりあえずザーンの街に行ってみようと思う。冒険者《ぼうけんしゃ》の店とやらを訪《たず》ねてみるつもり。  またサーラに会えるかどうかは分からない。会えなくたってかまわない。ボクがデルという女の子に勝てないことはよく分かったから。今のボクの望みは、彼の恋人になることじゃないから。  彼との出会いで、ボクは学んだ。自分が女の子だということを。女として男を愛するというのが素晴《すば》らしい体験だということを。だからもう、自分が女であることを呪《のろ》ったりはしない。女であることに誇《ほこ》りを持つ。  そう考えると、女であることが冒険者になるための障害《しょうがい》なんかじゃないことに気がついた。それはむしろ、ボク自身が溝《みぞ》を飛び越《こ》えるのをためらう言い訳《わけ》にしていたのだ。女というハンデがあるから越えられないと思っていた。そうじゃない。足りなかったのは勇気。  冒険者になるのは大変だろう。サーラのような悲しみも体験するだろう。才能《さいのう》がなくて挫折《ざせつ》するかもしれない。失敗してみじめに村に帰ることを考えると、不安でたまらない。  でも、あの日、サーラを助けるためにマンティコアに立ち向かった勇気があれば、そんなもの克服《こくふく》できるはず。失敗した時のことなんて、失敗してから考えればいい。  ボクの心には大きな力がある。それを気づかせてくれたのはサーラだ。  待ってて、サーラ。いつか追いついてみせるから。 [#改ページ]   死者の村の少女 「教会の焼け跡《あと》を見てきた」  夕食の前、テーブルに着いていた少女がぽつりと言った。歳は十三|歳《さい》ぐらい。短く黒い髪《かみ》。黒いズボンと黒い上着は、土で汚《よご》れている。おしゃれとは縁のない男の子のような身なり。その瞳《ひとみ》には暗い疑惑《ぎわく》と不安が宿っている——自分は今、恐《おそ》ろしい罠《わな》のど真ん中にいるのではないかと疑っている。  厨房《ちゅうぼう》に立っていた明るい金髪《きんぱつ》の少女は、焼き上がった魚をフライパンから皿に移《うつ》しながら、「そう?」と気のない返事をした。黒髪の少女と同|年齢《ねんれい》か、少し年上のように見える。花のような青いスカート、白いエプロン、髪には青いリボン。いつもかすかに笑顔《えがお》をたたえており、明るく快活《かいかつ》そうな印象だった。  相手のわざとらしい無関心ぶりに、黒髪の少女は苛立《いらだ》った。 「教会だよ。行ってきたんだ」  金髪の少女は何も言わない。スカートをひるがえし、陽気な鼻歌まじりに歩いてきて、テーブルの上に二人分の食事を並《なら》べてゆく。それが終わるとエプロンを取って、黒髪の少女と向かい合う席に着いた。手を組み合わせ、聞こえないほどの小声で神への感謝《かんしゃ》の祈《いの》りを捧げる。  静かだった——暗い窓《まど》の外からは、すすり泣くような夜風の音がかすかに響《ひび》いてくるだけだ。人の話し声はもちろん、虫の声さえ聞こえない。外の世界など存在《そんざい》せず、この家だけが暗い虚空《こくう》にぽつんと浮《う》かんでいるかのような錯覚《さっかく》すら覚える。 「……何があったんだ、あそこで?」  その質問を、金髪の少女は無視《むし》した。 「さあ、いただきましょう」  そう言って、ナイフとフォークで上品に焼き魚を食べはじめる。しかし、黒髪の少女は手をつけず、じっと皿を見つめるだけだ。 「……人の骨《ほね》がいっぱいあった」彼女は暗い声で言った。「焼けた骨——何十人もあそこで死んだんだ。それもつい最近」  何も聞こえていないかのように、金髪の少女は黙々と食事を続けている。黒髪の少女の感情《かんじょう》はますます昂《たか》ぶった。 「答えろよ!」  たまりかねて、拳《こぶし》でテーブルを叩いた。皿がびっくりしたように跳《は》ねる。 「この村はいったい何なんだ!? 何があった!? それに——あんた、いったい何者なんだよ、フレイヤ[#「フレイヤ」に傍点]!?」  にらみつける黒髪の少女。だが、フレイヤと呼ばれた少女は少しも動じず、静かに|微笑《ほほえ》むだけだった。 「お行儀《ぎょうぎ》が悪いわよ」彼女は気味悪いほど優《やさ》しい声で言った。「食事は静かに食べるものよ。そう教わらなかったの、デル[#「デル」に傍点]?」  それは二〇日前のこと。  夜明け前の深い群青色《ぐんじょういろ》の空から、その生きものは黒い流れ星のように落下してきた。  行くあてもなく、どこに向かっているかも分からず、ひと晩中《ばんじゅう》、ただ飛び続けてきた。月明かりに照らされた夜の大地を遠く下に見て、夢《ゆめ》のように美しい星空を高く高く飛翔《ひしょう》しながらも、心は絶望《ぜつぼう》に深く沈《しず》んでいた。すさみ、苦悩《くのう》し、狂乱《きょうらん》する想《おも》いに身を焦《こ》がした。自暴自棄《じぼうじき》になり、風の中ですすり泣きながら、二度と会えないであろう愛する者の名と、堕落《だらく》した自分に対する呪詛《じゅそ》を交互《こうご》に洩《も》らした。忌《い》まわしいものから逃《のが》れようとするかのように、がむしゃらにはばたき続けたが、無論《むろん》、逃《に》げられるはずがないことは知っていた——忌まわしいものとは、その生きもの自身であったから。  酷使《こくし》された翼《つばさ》はすでに疲労《ひろう》の極にあり、はばたく力をほとんど失っていた。魂《たましい》も疲《つか》れ果て、夜明けが近づくにつれて、睡魔《すいま》の訪《おとず》れとともに意識《いしき》はもうろうとなり、生きる意欲《いよく》すら薄《うす》れていった。悲しみの海にあがいていた心は、やがて浮力《ふりょく》を失い、抵抗《ていこう》をやめて絶望の淵《ふち》へと沈みはじめた。光の届《とど》かない深海に落ちてゆくにつれ、心地良いあきらめに癒《いや》され、安らぎに満ちた黒い眠《ねむ》りに引きこまれていった。  今や四|枚《まい》の黒い翼ははばたくのをやめ、後退《こうたい》して重なり合い、三角形のシルエットを形成していた。びゅうびゅうという風を切る音とともに、恐《おそ》ろしい速さで夜空を滑空《かっくう》してゆく。長い氷の坂道を滑《すべ》り降《お》りるように、浅い角度で落ちてゆくその先には、森に囲まれた小さな湖があった。今夜は風はなく、さざなみひとつない黒い湖面は、磨《みが》き上げた黒曜石《こくようせき》の一枚板のように見える。湖はどんどん大きくなってくる。生きものは破滅《はめつ》に向かってまっしぐらに突《つ》き進んでいた。この速度で水面に叩きつけられたら、いかに強靭《きょうじん》な肉体もただでは済《す》まないだろう。  だが、その疲労と絶望はあまりにも深すぎた。死を望む声すらかき消すほどに。失神|寸前《すんぜん》の意識は、もはや理性《りせい》の一片《いっぺん》すら失い、知能《ちのう》すらも麻痺《まひ》し、野獣《やじゅう》のそれに近くなっていた。最後の最後になって、動物としての最も基本《きほん》的で原始的な欲求《よっきゅう》——生存本能が頭をもたげた。  死にたくない。  衝動《しょうどう》が体を動かした。翼が再《ふたた》び開き、風を受け止めた。抵抗に出くわし、生きものの速度は急に鈍《にぶ》った。上体が持ち上がり、降下《こうか》角度がさらに浅くなった。  湖面すれすれで、生きものは水平飛行に移《うつ》った。翼の生み出す空気のクッションが体を支《ささ》え、滑るように飛んでゆく。速度はさっきまでの半分以下になっていた。そのまま何秒か飛び続けたが、岸まであと少しというところで体が大きく傾《かたむ》き、翼の端《はし》が水面に触《ふ》れた。生きものの体はバランスを崩《くす》して大きくつんのめり、水面に叩きつけられて、水しぶきとともにまた跳ね上がった。水きり石のように水面をスキップする。最後にひときわ大きく跳ね上がったかと思うと、四枚の翼を広げて風車のようにくるくる回転し、岸辺の茂《しげ》みに突っこんだ。  それっきり、生きものは動かなくなった。波紋《はもん》が収《おさ》まると、湖は静寂《せいじゃく》を取り戻《もど》した。  やがてゆっくりと夜が明けはじめた。  昼|過《す》ぎ、高く昇《のぼ》った太陽の光が、梢《こすえ》の間から降《ふ》り注ぎ、生きものの体を照らし出した。それは生い茂った草の合間に、うつ伏《ぶ》せに横たわっていた。本体は草で隠《かく》され、見えるのは巨大《きょだい》な花弁《かべん》のように広がっている四枚の黒い翼だけ。コウモリの翼とも昆虫《こんちゅう》の羽根とも似ていない、この世界のものではない奇怪《きかい》な形状《けいじょう》だった。軟体《なんたい》動物の表皮のようにぬめぬめと黒光りしているが、濡《ぬ》れてはいない。一枚一枚が子供《こども》の背丈《せたけ》ほどもあり、全体としてナイフのように細長くて薄い。上の一対《いっつい》は縁《ふち》がぎざぎざで、下の一対は先端《せんたん》がねじれて槍《やり》のように尖《とが》っている。  翼はしなだれ、生気がないように見えたが、生きものが陽《ひ》の光を浴びて目を覚ますと、かすかに震《ふる》え、獲物《えもの》を狙《ねら》う食肉植物のようにゆっくりとうごめきはじめた。生命力が流れこむにつれ、力強く波打ち、何かを手招《てまね》きするように不気味にはためく。骨《ほね》が入っていないのだろうか、タコの触手《しょくしゅ》のようにきわめて柔軟《じゅうなん》に、なまめかしく動いた。生きものは身じろぎし、うめき声をあげた。哀《かな》しげな女の声だった。やがて翼が空中高く持ち上げられると、その下に隠れていた体があらわになった。  それは小さくてほっそりした人間の形をしていた。大人として成熟《せいじゅく》するにはまだ何年もかかるだろうが、思春期を迎《むか》えたその体形は、まぎれもなく女性のそれだった。黒いズボンと黒いシャツに身を包んでいる。シャツはずたずたに裂《さ》け、肩《かた》から腹《はら》にかけて、かろうじてまとわりついている状態《じょうたい》で、背中《せなか》と両腕《りょううで》は露出《ろしゅつ》していた。ズボンにも大きな裂け目ができていた。  人間のようだが、人間ではありえない。四枚の巨大な翼は、その背中からシャツを突き破《やぶ》って生えているのだ。つけねのあたりでは、黒い皮と白い皮膚《ひふ》がグラデーションを構成《こうせい》し、明確《めいかく》な境界線《きょうかいせん》もなく溶《と》け合っている。それは人間と人外のものの融合体《ゆうごうたい》——魔獣《まじゅう》であった。  土に突っ伏《ぷ》しているその横顔は、翼《つばさ》とは対照的に白かった。いつもなら花のように美しいのだろうが、今は茶色く変色した忌《い》まわしいものにまみれ、乱《みだ》れた髪《かみ》が頬《ほお》に貼《は》りついて、ひどい有様だった。頬には茂みに突入《とつにゅう》した際《さい》にできたかすり傷《きず》がある。髪や衣服もまた、乾《かわ》いた茶色いものに、錆《さび》のようにまだらに覆《おお》われていた。  その愛らしい横顔が苦しげに歪《ゆが》み、閉《と》じた目蓋《まぶた》がぴくぴくと震えた。目覚めたくなかった。このままずっと眼《め》を閉じ続け、現実《げんじつ》を拒否《きょひ》したかった。すべては夢《ゆめ》なのだと思いたかった。だが、容赦《ようしゃ》なく降り注ぐ陽射《ひざ》しがそれを許《ゆる》さなかった。ついに魔獣は太陽に屈服《くっぷく》し、しぶしぶと眼を開いた。  魔獣の名はデルと言う。  苦痛《くつう》のうめきが洩《も》れた。全身がずきずきと痛《いた》む。派手《はで》な着地の際に受けた衝撃《しょうげき》のせいだ。骨が折れたのかもしれない。それ以外にも、あちこちにかすり傷があった。 「……偉大《いだい》なるファラリスよ」  反射《はんしゃ》的に、暗黒神に助力を求めた。たちまち痛みが薄れ、傷が癒《い》えてゆく。その速さと力強さに、彼女は少し驚《おどろ》いた。暗黒魔法で傷を治したことは何度もあるが、それがとてつもなく力を増《ま》しているのを感じる。今の自分は強大な暗黒魔法を使いこなせることを、彼女は思い出した。  痛みが嘘《うそ》のように消えると、ゆっくりと上半身を起こした。後ろを見たくなかった。振《ふ》り向いて確認《かくにん》するまでもない。自分の背中からおぞましい翼が生えていることは、感覚で分かる。手足が存在しているのが分かるのと同じように、翼が自分の肉体の一部として存在していることが自覚できるのだ。翼には触覚もあり、照りつける太陽の暖《あたた》かさも感じられた。彼女はふっと皮肉な笑《え》みを洩らした。やはり現実だった。何もかも。  昨日まで、自分は人間だった。今はもう違《ちが》う。古代の邪悪《じゃあく》な魔術師《まじゅつし》が遺《のこ》した「悪魔のエッセンス」と呼ばれる宝珠《オーブ》。それに封印《ふういん》されていたグレーター・デーモンのエッセンスと融合し、魔獣となったのだ。  涙《なみだ》は出なかった。涙は昨夜、使い果たしたから。  しばらくは地面にぺたんと座《すわ》りこんだまま、何か目的があるわけでもなく、花のように開いた翼をゆらゆらと揺《ゆ》らしていた。動かすことに何の支障《ししょう》もなかった。歩くのにいちいち「右足よ前に出ろ」「左足よ前に出ろ」と命じなくていいのと同様、ただ「飛びたい」と思うだけで自由にはばたき、飛び回ることができる。まるで生まれた時から生えていた翼のように。  おそらく翼だけではなく、脳《のう》の一部も魔獣になっているのだろう。そうでなければ、練習したわけでもないのに、翼の動かし方が分かるはずがない。  ふと、疑問《ぎもん》が湧《わ》いた。自分はもう頭の中まですっかり魔獣になってしまったのだろうか。魔獣のように考えているのだろうか。だとしたら、昨夜のあの凶行《きょうこう》も、自分の意思ではなく悪魔の意思だったのでは……。  すぐに勘違《かんちが》いに気がついた。そんなわけはない。自分はあの時、まだ魔獣になってはいなかった。魔獣になるために人を殺したのだ。自分の意思で。何の罪《つみ》もない少女を。  記憶《きおく》が鮮烈《せんれつ》にフラッシュバックした。ダガーをフレイヤの胸《むね》に突《つ》き立てた時の手ごたえが、手の中にありありとよみがえる。その瞬間《しゅんかん》、短い距離《きょり》をうつむいて突進《とっしん》したものの、少女の驚愕《きょうがく》の表情《ひょうじょう》は視野《しや》の隅《すみ》にちらりと見えた。それは記憶に強く焼きついている。最後の一秒、あの子はダガーの刃《は》のきらめきを確かに目にした。だが、自分がなぜ死なねばならないのか、理解《りかい》できなかったろう。いや、何が起きようとしているのか分からず、死ぬ運命にあることすら認識《にんしき》できなかったかもしれない。  ぶつかった瞬間、デルは確かに耳にした。「待って」と少女が小さくつぶやく声を。無意味な言葉だった。その時すでに、ダガーは深く突き刺《さ》さっていたから。  しゃがみこみ、ダガーを引き抜《ぬ》くと、熱い血が噴出《ふんしゅつ》し、顔にかかった。前のめりに倒《たお》れてくる少女の細い体を、腹《はら》の下にもぐりこむようにして、頭で支えた。思いがけない体重に呻吟《しんぎん》しながらも、持っていた袋《ふくろ》から手探《てさぐ》りでオーブを取り出した。その間にも、息絶《いきた》えた小さな体からは、想像《そうぞう》もつかないほどの量の血がほとばしり、デルの全身を染《そ》めていった。それは温かく、気味悪く、おぞましく……。  甘美《かんび》だった。  フラッシュバックが去った。鮮明な記憶を突きつけられ、デルはあらためて事実を思い知らされ、身震《みぶる》いした。苦悩《くのう》したのはダガーで刺すまでと、魔獣《まじゅう》に変身した後だ。あの瞬間——フレイヤをこの手で殺《あや》め、熱い血を全身に浴びた瞬間、犯《おか》した罪《つみ》の大きさにおののきながらも、まぎれもなく、甘美な快感《かいかん》を覚え、狂喜《きょうき》していた。  人を殺すのは楽しい。特に、何の罪もない人を殺すのは。  魔獣になったからそう思うのではない。人間であった時から自分は邪悪だったのだ。以前から気がついてはいたが、昨夜、彼女はそれを決定的に自覚した。誰《だれ》に強制《きょうせい》されたのでもなく、自分の意思で人を殺し、その行為《こうい》に歓《よろこ》びを覚えた。  おそらくそれこそが、悪魔と融合《ゆうごう》するための条件《じょうけん》だったのだろう。処女《しょじょ》の生き血というのは、魔術を完成させるのに必要な素材《そざい》というよりは、オーブの中の悪魔が望んだ契約《けいやく》の儀式《ぎしき》だったのだろう。無垢《むく》な少女を殺すという、人として許されない大罪《たいざい》を犯し、人であることを自ら放棄することが。  ドワーフのメイガスは、デルを生贄《いけにえ》に、悪魔と融合しようと試み、失敗して死んだ。悪魔が拒否《きょひ》した理由は、自分が肉体的というより、精神《せいしん》的に無垢ではなかったため、生贄に不適当《ふてぎとう》だったのではないか、と彼女は思った。あるいは悪魔は、宿主としてメイガスより自分の方がふさわしいと判断《はんだん》したのか。  デルはゆっくり振り返り、背後《はいご》にうごめく翼《つばさ》をちらりと見た。忌《い》まわしく変貌《へんぼう》した肉体——だが、ある意味で、邪悪な自分に似合《にあ》った姿《すがた》と言えるのではないか。自分が悪魔になることを望み、悪魔も自分を気に入ったからこそ、融合が実現《じつげん》したのではないか。  ずっと前から決まっていたことなのではないか。  奇妙《きみょう》なのは、心の中を見渡《みわた》してみても、かんじんの悪魔の意思らしきものが見当たらないことだ。この体に別の魂《たましい》が宿っているようには感じられない。悪魔が契約と引き換《か》えに自分の魂を放棄するとは、理屈《りくつ》に合わないように思える。悪魔の側に何のメリットもないからだ。とすると、肉体だけでなく魂までもひとつになったのだろうか。悪魔の意思が見当たらないのは、自分の意思と区別がつかないほど違和《いわ》感なく融《と》け合っているからなのでは?  そうなの? と、彼女は心の中にいるはずの悪魔に向かって問いかけてみた。返事はない。しかし、その考えがしっくりくるように感じるのは、それが正解だからではないかと思えた。返事がないのは、悪魔が今や自分と完全に一体になっているからではないか。  ふと、思索《しさく》を中断《ちゅうだん》し、空を見上げた。真っ青な秋空には、乾《かわ》きかけたブラシでさっと刷《は》いたような雲が浮《う》かんでおり、ヒバリらしい小さな影《かげ》が舞《ま》っているのが見える。穢《けが》れてしまった自分の心とは似ても似つかない美しい空に、彼女は劣等《れっとう》感とも羨望《せんぼう》ともつかない感情を覚えた。 「……どうしよう」  そうつぶやいた。魔獣になる決心をしたのは、サーラを救うためだった。その目的は達成された。その後のことは何も考えていなかった。行きたい場所などなく、やりたいこともなかった。  自分の望みはただひとつ、愛する少年といつまでもいっしょにいること——だが、それはもう叶《かな》わない。  何もすることがなく、彼女は何時間もそこに座《すわ》って、とりとめもなく回想にふけっていた。未来について考えることができないので、過去《かこ》に逃避《とうひ》するしかなかったのだ。サーラのこと。自分のこと。仲間たちのこと。死んだ父のこと。二人目の父アルドのこと……涙《なみだ》は昨夜で涸《か》れ果てていたので、悲しいはずの記憶も、一種の虚脱状態《きょだつじょうたい》で、たいして苦痛《くつう》もなく受け止めることができた。  だが、一度だけ涙がこぼれた。昨夜の記憶のひとつがよみがえったのだ。自分の裸身《らしん》を這《は》い回る、サーラの優《やさ》しい手。自分の上にのしかかってくる、サーラの愛《いと》しい体重。その温かさ、優しさ、心地《ここち》よさ。くちづけを交《か》わし、愛を確《たし》かめ合い、ついに自分は幸せになれると確信《かくしん》した——次の瞬間《しゅんかん》、すべてが無残に打ち砕《くだ》かれるとも知らずに。  やがて陽《ひ》が暮《く》れてきた。茜色《あかねいろ》に染まった空を渡《わた》り、ねぐらに帰ってゆくカラスの群《む》れを見上げながら、少女はぽつりとつぶやいた。 「……お腹《なか》、空《す》いた」  昨夜はメイガスの死に直面し、夕食が咽喉《のど》を通らなかった。それから丸一日近く、何も食べていない。胃袋《いぶくろ》は空っぽだった。  ふと、おかしくなって笑いが洩《も》れた。魔獣もやはりお腹が空くのか。魔獣は何を食べるのだろう。  やはり人間だろうか。  その発想にさほど衝撃《しょうげき》を受けなかった自分に、デルは少しとまどった。おぞましい考えのはずなのに、そう思えないのだ。やはり頭の中まで悪魔のそれになっているのか。  その気になりさえすれば、その発想はすぐにでも現実になる。人里に出て、目についた人間を手当たりしだいに殺し、むさぼればいい。今の自分を阻止《そし》できる者は、そう多くはいないはずだ。平和な町や村を血で染《そ》め、メイガスが夢《ゆめ》見たように、世界に破壊《はかい》と恐怖《きょうふ》をもたらすことだってできる。  メイガスに刃《やいば》を突きつけられ、心情《しんじょう》の告白を聞いた時には戦慄《せんりつ》したものだ。しかし、今の彼女には、そうした行為《こうい》を否定《ひてい》しようという感情はない。それもひとつの生き方だろうと、ごく当然のように受け入れている。そうしない理由は単純《たんじゅん》で、人を殺さぬばならない積極的な動機がない、ただそれだけだ。  世界を混乱《こんらん》に導《みちび》く? 悪名を轟《とどろ》かす? 後世に名を残す? そんなことをして何になる。空《むな》しいだけではないか。  陽が落ち、また暗くなってきた。月はまだ昇《のぼ》ってこない。だが、視野《しや》は真っ暗にはならなかった。魔獣の眼は暗いところでも見えるのだ。昼間のような色彩《しきさい》にこそ欠けているものの、満月に照らされているかのように、何もかもありありと見える。  少女は湖までふらふらと歩いていった。ズボンは血が固まってごわごしており、歩くたびに不快《ふかい》感があった。翼はその大きさにもかかわらず、まったく重さを感じさせない。はばたいていない状態でも揚力《ようりょく》が発生し、宙《ちゅう》に支《ささ》えられているようだ。歩く際《さい》には、蝶《ちょう》が羽根を畳《たた》むように自然に後方に畳まれるので、動作の邪魔《じゃま》にならない。  夜の湖は静かで、神秘《しんぴ》的な美しきをたたえていたが、それを堪能《たんのう》する心境《しんきょう》ではない。岸辺に膝《ひざ》をつき、犬のように水をがぶ飲みして、空腹《くうふく》をごまかした。とりあえず飢《う》えはまだ我慢《がまん》できる。べつに人を襲《おそ》わなくてもいい——今のところは。  彼女は空きっ腹を抱《かか》えて茂《しげ》みの中で丸くなり、いつしか眠《ねむ》りに落ちた。  また朝がめぐってきた。  目が覚めると、空っぽの胃がしくしくと痛《いた》んだ。夜の間に空腹はさらに進行し、耐《た》えがたくなっていた。寝転《ねころ》んだまま、空を見上げる。起きたばかりでまだぼうっとしており、筋道《すじみち》を立てて考えることができず、飢えだけが強烈《きょうれつ》に意識《いしき》を支配《しはい》していた。何か食べたい。新鮮《しんせん》な血と肉が欲《ほ》しい。  ばさばさという羽音とともに、視界を鳥の影《かげ》がよぎった。森の中から飛び出してきたのだ。彼女はとっさに暗黒魔法をつぶやいていた。  鳥は鈍《にぶ》い音をたてて破裂《はれつ》した。羽根と血しぶきを空中にまき散らし、くるくる回りながら落ちてくる。寝ている場所から十数歩の草むらに落下した。彼女はなかば転がるようにして駆《か》け寄《よ》り、草を分けて探《さが》し出した。  死骸《しがい》は何の鳥だったか分からないほどに破壊《はかい》されていた。血にまみれた無残な肉と内臓《ないぞう》の塊《かたまり》。少女は野獣《やじゅう》のようにむしゃぶりつき、生肉を食いちぎり、むさぼった。よく噛《か》まずに生肉を囁下《えんげ》し、血をすすった。  不意に正気が戻《もど》ってきた。今の自分のあさましい姿《すがた》を自覚し、涙《なみだ》があふれてくる。耐えられなくなり、声をあげて泣きじゃくった。  もう自分は人間ではないのだ。  どうしていいのか分からない。いっそ死のうかとも思った。だが、その踏《ふ》ん切りもつかない。生きていたいという強い意志《いし》はなかったが、死にたいという意志もまた、原始的な生存《せいぞん》本能を打ち破《やぶ》れるほど強くはなかった。  腹が減《へ》る。飢えを満たしたいと胃袋《いぶくろ》が訴《うった》える。心は空っぽでも、肉体は生き続けたいと望んでいる。  だから生き続ける——目的もなく、ただ惰性《だせい》で。  鳥をまるごと一羽平らげたことで、とりあえず腹はいっぱいになった。昼|過《す》ぎ、せめてさっぱりしようと、湖で体を洗《あら》うことにした。  ズボンを脱《ぬ》ぐのが少し面倒《めんどう》だった。血が服の布地《ぬのじ》の裏側《うらがわ》まで浸透《しんとう》して固まり、布と皮膚《ひふ》を糊《のり》のように貼《は》りつけてしまっていたのだ。強引《ごういん》に引っ張《ば》ると、布はぺりペりと音を立てて太腿《ふともも》から剥《は》がれた。  秋なのに暖《あたた》かい日だった。水は冷たすぎて全身|浸《つ》かるのはためらわれたが、岸辺にしゃがみ、すくって体にぴしゃぴしゃかける分には気持ち良かった。  皮膚についた血はすぐに剥がれ落ちた。髪《かみ》にこびりついた血は、水でふやかしたうえにしつこくこすって、どうにかほとんど取れた。衣服にたっぷり染《し》みついた血は、あきらめるしかなさそうだ。水洗いぐらいでどうにかなるものではない。幸い、黒い服だから、染みはさほど目立つまい。ごわごわした感触《かんしょく》さえ我慢すればいいのだ。  水面に揺《ゆ》れる自分の姿を見下ろしてみる。翼《つばさ》以外はほとんど変わったところはない。ウロコもなければ、角も生えていない。翼の生えた姿だって、見ようによっては美しいと言えないこともない——だが、そんな考えは気休めにすぎないことは、自分でも分かっている。この肉体がおぞましいのは、その外見ゆえにではない。この身に重い罪《つみ》が拭《ぬぐ》いがたく染みついているからだ。  風が吹《ふ》いてきてさざなみを起こし、水面に映《うつ》る虚像《きょぞう》をかき乱《みだ》した。肌寒《はだざむ》い秋の風だ。人間だったらくしゃみのひとつも出ただろうが、魔獣《まじゅう》になった今はさほど苦に感じない。病気に対する抵抗力《ていこうりょく》も強くなっているはずだから、そう簡単《かんたん》に風邪《かぜ》もひかないだろう。げんに昨夜は、冷えこんだはずなのに、鼻水のひとつも出なかった。  老化もしないだろう。迷宮《めいきゅう》に棲《す》む魔獣たちと同じく、誰かに殺されでもしないかぎり、きっとこの姿のまま何百年も生き続けられるに違《ちが》いない。それに思い当たって、デルはぞっとなった。こんなにも重い心を抱えて、何百年も生きるなんて、まさに拷問《ごうもん》だ。  では、生きることが罰《ばつ》なのか。人を殺した罪のために、自分は死刑《しけい》よりも重い罰に苦しみ続けねばならないのだろうか。  だが、何百年も先のことなんて、ぴんとこない。今日、どう生きればいいのかさえ分からないのに、そんな未来のことなんて分かるはずがない。  とにかく生きるしかない。  洗った服は木の枝《えだ》にひっかけた。それが乾《かわ》くまでの間、黒い翼でマントのように全身を包んで、茂みの中にうずくまり、少しだけうたたねをした。はるかな未来にまで横たわる陰鬱《いんうつ》な日々に、気の遠くなるような絶望《ぜつぼう》を覚えながら。  子供《こども》がきゃっきゃっと騒《さわ》ぐ声で目が覚めた。最初は気のせいかと思ったが、それにしては明瞭《めいりょう》だ。しだいに近づいてくる。この近くに村があるのか? 考えている余裕《よゆう》はない。急いで芋虫《いもむし》のように這《は》い、茂みのさらに奥《おく》に後退《こうたい》して、身を隠《かく》す。  岸辺に姿を現《あら》わしたのは、一〇|歳《さい》ぐらいの男の子三人だった。デルは息をひそめ、葉の合間から観察した。三人とも釣《つ》り竿《ざお》を担《かつ》ぎ、魚籠《びく》を提《さ》げている。  一人がずっと前にこの湖で釣りそこねた大物のことを話していた。手を広げ、「こーんなだったんだぜ、こーんな!」と大声で自慢《じまん》する。明らかに子供にありがちなホラ話で、他《ほか》の二人はまるで信じていないようだった。  やがて三人は場所を定め、こちらに背《せ》を向けて、水面に糸を垂《た》れた。枝にひっかかっているデルの服にはまったく気がつかないようだった。裸《はだか》で出て行くわけにもいかず、彼女は身動きできなくなった。  釣りをしている間も、三人はひっきりなしに何か喋《しゃべ》っていた。遠かったので内容《ないよう》は断片《だんペん》的にしか聞き取れなかったが、釣りの腕《うで》の自慢とか、村人の噂話《うわさばなし》とか、口うるさい母親に対する愚痴《ぐち》とか、他愛《たわい》ない話題のようだった。彼らを背後《はいご》からじっと見つめながら、デルは自分の息づかいが荒《あら》くなってくるのを感じた。少年たちの健康そうな手足を見ていると、ある妄想が静かに湧《わ》き上がってくるのを止められない。  あの子たちの腹《はら》を裂《さ》くのはどんな感じだろう。  どんな悲鳴が上がるだろうか。  あの細い腕はどんな歯ごたえなのだろう。  穢《けが》れのない新鮮《しんせん》な血は、やはりおいしいのだろうか。  それを実行している自分を想像《そうぞう》する。無論《むろん》、人間としてのモラルは、そうした考えに嫌悪《けんお》を抱《いだ》いている。だが、人間であった頃のそれと比べると、ずっと無力だった。何と言っても、自分はすでに罪もない少女を殺しており、恐《おそ》ろしい罪を背負っているのだ。さらに三人殺したところで、どれほどの違いがあるだろうか。それに法というのは人間のためにあるものだ。魔獣は法に従《したが》う義務《ぎむ》はない。  彼女の信奉《しんぽう》する暗黒神ファラリスは、欲望《よくぼう》に忠実《ちゅうじつ》に生きよと命じている。子供たちを殺したいという欲望があるなら、従うべきなのだ。  朝に鳥を食べていなかったら、そうしていたかもしれない。だが、今の彼女は空腹《くうふく》ではなかった。フレイヤを殺したのは、サーラを救うためという目的があった。だが、あの子たちを殺す必然|性《せい》はない。殺したらどうなるかというのは、あくまで妄想であって、どうしても殺したいという強い衝動《しょうどう》や欲望があるわけではない。  ただそれだけ——彼女が子供たちを襲わない理由は、「今のところ殺す理由がないから」というだけだった。  子供たちは背後の茂《しげ》みからの視線《しせん》にまったく気づかず、無邪気《むじゃき》に笑い合い、ふざけ合っていた。自分たちの生命が一羽の鳥に救われたとは、想像もしていなかった。  夕方になり、三人がささやかな釣果《ちょうか》を手にして帰ってゆくと、デルはのろのろと隠れ場所から這い出した。  干《ほ》しておいた服はすでに乾《かわ》いていた。下着に脚《あし》を通そうとして、ふとためらった。もう人間でないなら、服を着る必要もないのではないかと思ったのだ。キマイラやバジリスクが服を着ているなんて、聞いたことがない。それにズボンはともかく、シャツは翼《つばさ》が生えた際《さい》に背中が大きく破《やぶ》れたのに加え、茂みに突《つ》っこんだ際にできた裂《さ》け目だらけだ。首からぶら下がっているだけの、残骸《ざんがい》のようなみっともない代物《しろもの》だった。  それでもやはり身に着けることにした。人間の、女性としての羞恥《しゅうち》心がまだ残っていたからだ。いずれそうした感覚も失われるのかもしれないが、今のところ人を殺す必然性がないのと同様、裸《はだか》で暮《く》らす必然性がない以上、服を着ていたってかまうまい。 「……どうしよう」  服を着終わると、彼女は空を見上げ、またつぶやいた。どこにも行くあてはない。かと言って、この先もこの山奥で鳥を食べてだらだらと生き続けるのも、何となく嫌《いや》だった。雨だって降《ふ》るだろうし、じきに冬も来る。やはり寒さをしのげる棲家《すみか》が欲《ほ》しい。だが、人里に出るのはまっぴらだ。  翼を隠す方法はある。人間に変身すればいいのだ。彼女に融合《ゆうごう》した悪魔《あくま》には人間の姿《すがた》を模倣《もほう》する能力《のうりょく》があり、彼女もその能力を使える。それは誰《だれ》に教わったのでもなく、気づいたわけでもなく、魔獣《まじゅう》になった時から当然のこととして知っていた。  人間に変身すれば、街に行っても怪《あや》しまれないだろう。だが、表面的に姿は変えられても、欺《あざむ》けるのは他人だけ。自分は欺けない。この身が魔獣であるというおぞましい事実は変えようがない。彼女は堕落《だらく》した今の自分をひどく蔑《さげす》み、恥《は》じていた。正体がばれないとしても、罪《つみ》もない人々の視線にさらされれば、無言で罪を糾弾《きゅうだん》されているように感じるだろう。耐《た》えられそうにない。  それに、大勢《おおぜい》の人に囲まれて暮らしていたら、大量|殺戮《さつりく》を繰《く》り広げたいという衝動が芽生えてしまいそうな気がする。  子供《こども》たちの語り合っていた噂話が気になった。ここから西に行った山の向こうに、「幽霊《ゆうれい》村」があるというのだ。ずいぶん前に疫病《えきびょう》で村人がみんな死んだのだが、誰もいないはずなのに一日三回、教会の鐘《かね》の音が聞こえる。今ではゾンビや幽霊が棲みついているのだ。彼らは自分たちが死んでいることに気づかず、生前の生活をずっと続けている。間違《まちが》って村に足を踏《ふ》み入れた者は、ゾンビに殺され、自分もゾンビにされて永遠《えいえん》に村にとどまる定めなのだ……。  いかにも子供が好きそうな怪談《かいだん》だった。少年たちは「ひえー、怖《こわ》いなあ」「近づきたくないよなあ」と言いつつ、どこかうきうきしている様子だった。  本当かどうかは分からない。この手の子供の怪談というやつは、たいてい根も葉もないということは、彼女自身、つい最近まで子供だったから知っている。それでも他《ほか》に行くべき場所を思いつかなかった。無人の村というのが本当にあるなら、雨風をしのげる家ぐらいあるだろう。  彼女は翼を広げ、飛び立った。夕陽《ゆうひ》が落ちたばかりで、オレンジ色の残照に彩《いろど》られた西の山に向かって。  天候《てんこう》は南の方から崩《くず》れはじめていた。残照が薄《うす》れ、しだいに暗さを増《ま》してゆく空を、雲がやけに速く流れてゆく。この分だと雨になりそうだ。  その村はじきに見つかった。サーラの故郷《こきょう》の村と同様、小さな集落だった。山にはさまれた、やや高低差のある三角形の土地に、畑と牧草地が広がっている。上空からは家が何|軒《げん》も見えたが、すでに暗くなってきているにもかかわらず、明かりを灯《とも》している家はなかった。  ゆっくりと高度を下げ、村はずれの畑の上を旋回《せんかい》する。夕陽の残照が薄れかかっていても、彼女の魔獣の眼《め》にはたいして支障《ししょう》はなかった。雑草《ざっそう》が繁茂《はんも》していて、荒《あ》れ放題であることは明白だった。もう何年も人の手が入っていないのだろう。何十年かすれば、森にすっかり呑《の》みこまれてしまうに違いない……。  畑の中に、人の姿《すがた》が見えた。  デルは驚《おどろ》いた。案山子《かかし》の見間違いかと思ったが、確かに動いている。体格《たいかく》からすると男性《だんせい》で、鍬《くわ》を振《ふ》り上げては振り下ろし、畑を耕しているかのようだ。しかし、一箇所《いっかしょ》から動いていない。  思い切って高度を下げ、着陸する。雑草は彼女の腰《こし》ほどの高さに生《お》い茂《しげ》っていた。男はほんの数十歩の距離にいた。黒い翼を持つ少女が空から舞《ま》い降《お》りてきたというのに、何の関心もないらしく、同じ場所で鍬を振るい続けている。顔は麦わら帽子《ぼうし》の陰《かけ》になって、よく見えない。彼女はすぐに予想がついたものの、それでも確認《かくにん》するために、雑草をかき分け、恐《おそ》る恐る近づいていった。  顔が見える距離まで近づくと、ぎょっとして立ち止まった。予想していたとはいえ、恐怖《きょうふ》で心臓《しんぞう》が縮《ちぢ》み上がる。男の顔はひどく腐乱《ふらん》しており、顔の右半分からは完全に肉が削《そ》げ落ちて、白い頭蓋骨《ずがいこつ》が露出《ろしゅつ》していた。  ごくりと唾《つば》を飲みこみ、悲鳴が洩《も》れそうになるのをこらえる。ゾンビを目にするのは初めてではない。スケルトンと並《なら》ぶ下級のアンデッドで、たいして強くはないことも知っている。今の自分はゾンビなど恐れる必要はないのだということも、頭では分かっている。それでも、十三|歳《さい》の少女としての感性が、動く死体に恐怖と嫌悪《けんお》感を覚えてしまうのは、どうしようもなかった。  ゾンビは無意味な農作業を続けているだけで、襲《おそ》ってくる気配はない。彼女はそろそろと後退《こうたい》し、その場を立ち去った。しばらく心臓がどきどきしていた。  村の中も荒廃《こうはい》していた。家々は手入れされておらず、窓《まど》が割《わ》れていたり、屋根に穴《あな》が空いていたりした。夜の闇《やみ》はしだいに濃《こ》くなってきているのに、やはりどの家も明かりをつけない。人の声も家畜《かちく》の鳴き声も聞こえず、生気というものがまるで感じられなかった。この村は死んでいるのだ。  にもかかわらず、そこには音があった。馬の足音。荷車の車輪の音。断続《だんぞく》的に釘《くぎ》を打つ音。規則正しく金属《きんぞく》を打つ音——死に絶《た》えた村にあるはずのない音。  子供たちの話していたことは本当だった。ここはゾンビの村なのだ。  ある家の台所では、女のゾンビがありもしない粉をこねる動作をぎくしゃくと続けている。樹の下では小さな女の子のゾンビがブランコをしている。その横では、男の子のゾンビと犬のゾンビがよたよたと円を描《えが》いて、いつまでも終わらない追いかけっこをしている。ゾンビの馬に引かれた荷車が、ゾンビの御者《ぎょしゃ》を乗せ、村の通りを意味もなく往復《おうふく》している。大工のゾンビは屋根の上で釘を打ち、鍛冶《かじ》屋のゾンビは金床《かなとこ》を槌《つち》で叩《たた》いている。小さな酒場では、テーブルを囲んだゾンビの客たちが空っぽのジョッキを上げ下げして、ビールを飲んでいるふりをしており、カウンターの中では太ったゾンビの主人が同じグラスをえんえんと磨《みが》いている。  ゾンビは同じ動作を繰《く》り返しているだけで、侵入者《しんにゅうしゃ》には何の関心も示《しめ》さず、襲いかかってくる気配はまるでない。たとえいっせいに襲いかかってきても、今の自分の力なら容易《ようい》に撃退《げきたい》できるはずだ。試《ため》してみるまでもなく、彼女は自分の実力を知っている。  しかし、いくら危険《きけん》がないといっても、不気味で恐ろしいことに変わりはない。魂《たましい》のない死体たちの中にひとりぼっちでいるのは、単なる孤独《こどく》よりも寂《さび》しく、不安で、気が滅入《めい》ってくる。恐怖をまぎらわそうと、無理して皮肉っぽい笑みを浮かべてみる。実際《じっさい》、皮肉な気分だった。いくら魔獣《まじゅう》になっても、人間の少女としての感性はそう簡単《かんたん》には克服《こくふく》できないものらしい。  いっそ心まで完全に魔獣になれば、恐怖も消え失《う》せるだろうに。  困惑《こんわく》が少し薄れてくると、疑問《ぎもん》が湧《わ》いてきた。ゾンビというのは暗黒魔法や古代語魔法で甦《よみがえ》った死体で、術者《じゅつしゃ》の命令に忠実《ちゅうじつ》に従《したが》う。しかし、死んだ村人たちに生前の暮らしのパロディを演じさせる意味が、どこにあるのか。村に近寄《ちかよ》る者をおびえさせ、追い返すためか。あるいは生前の村人たちに恨《うら》みがある者で、遺体《いたい》を辱《はずかし》めるためにやっているのか。あるいは面白《おもしろ》半分のいたずらか。何にしても悪趣味《あくしゅみ》としか言いようがない。  彼らにこんな無意味な動作をさせている者がどこかにいるはずだ——歪《ゆが》んだ心を持つ魔法の使い手が。  村の通りを歩いていると、突然《とつぜん》、大きな音がした。びくっとして耳をふさぐ。からんからんと金属の鳴る音——鐘《かね》の音だ。  それまでなかったものに気がついた。明かりだ。ゆるい坂道になった通りの突《つ》き当たりにある建物で、他《ほか》の家よりひと回り大きく、傾斜《けいしゃ》のきつい三角形の屋根がある。音はそこからしていた。鐘楼《しょうろう》があるところを見ると教会だろうか。  その窓に灯《ひ》が点《とも》っている。ゾンビに明かりが点《つ》けられたり、夕べの鐘を鳴らせるとは思えない。ということは人がいるのか。  確《たし》かめてみる必要がある。  その館《やかた》に向かって坂道を登ってゆきながら、この翼《つばさ》を見られるのはまずいな、と思った。そこで、魔獣になってからの二日間、一度も試したことはなかった変身能力を使うことにした。誰にでも化けられるわけではない。顔を知っている人間でなくてはならない。デルの最もよく知る人間と言えば、もちろん人間であった時のデル自身である。だからその姿《すがた》になることにした。  歩きながら、大きな翼がすうっと収縮《しゅうしゅく》し、背中《せなか》に吸《す》いこまれた。変身に要した時間はわずか数秒。今の彼女は、どこから見ても人間の少女である。  暗い空から雨がぱらつきはじめた。  教会の前に来た。錆びた鉄柵《てっさく》の外に立ち、建物を間近で見上げる。礼拝堂《れいはいどう》と司祭の館が一体になっているようだ。やはり手入れされておらず、壁《かべ》は蔦《つた》で覆《おお》われ、荒廃した印象だった。明かりさえなければ無人だと思ったことだろう。当然あるはずの、宗派《しゅうは》を示すシンボルがどこにも見当たらない。古くなって落ちたのだろうか。  しばらくためらっていたものの、雨足が強くなってきたので決意を固めた。このまま外にいて、びしょ濡《ぬ》れになりたくはない。鉄の門扉《もんぴ》は閉《と》じていたが、盗賊《とうぞく》の訓練を積んだ彼女にはどうということはなかった。ひょいと身軽に壁を乗り越《こ》え、中庭に降《お》り立つ。庭は雑草《ざっそう》が生《お》い茂《しげ》っており、ひどい有様だった。雨が草の葉を打つ音が騒々《そうぞう》しい。  雑草をかき分けて入口に歩み寄った。錆びたノブに手をかけて、大きな両開きの扉《とびら》を少し押《お》してみる。油の切れた蝶番《ちょうつがい》が、悲鳴のような不快《ふかい》なきしみを上げた。これでは館の中にいる者に聞こえてしまうな、と思ったが、慌《あわ》てはしなかった。こそこそ侵入《しんにゅう》する意味はない。相手が何者だろうと、たぶん今の自分の方が強い。そう思って、肩《かた》を扉に当て、思い切って押し開けた。  次の瞬間《しゅんかん》、闇《やみ》に包まれた礼拝堂の奥《おく》で、弦《つる》がはじける音がしたかと思うと、胸《むね》に強い衝撃《しょうげき》が走った。  のけぞってよろめきながら、驚《おどろ》いて胸を見下ろす。太いクロスボウの矢が左胸に突き立っていた。罠《わな》にひっかかったと気づくと同時に、爆発《ばくはつ》的な激痛《げきつう》が襲ってくる。メイガスに刺《さ》された時と同じような痛み。目がくらむ。 「あふ……」  デルは膝《ひざ》をついた。片手でノブにしがみつき、どうにか倒《たお》れるのをこらえる。激《はげ》しく咳《せ》きこみ、口から血を吐《は》いた。矢は肺《はい》まで貫通《かんつう》しているようだ。まだ人間だったなら、確実《かくじつ》に死んでいたはずだ。 「ちょっと……油断《ゆだん》……したかな?……」  苦痛にあえぎながらも、彼女は唇《くちびる》を歪《ゆが》めて笑った。左手でノブをつかんで体を支《ささ》えながら、右手で矢を握《にぎ》り、一気に引き抜《ね》く。傷口《きずぐち》から血がほとばしる。またも強烈《きょうれつ》な激痛。彼女は館じゅうに轟《とどろ》くような悲鳴を上げた。  意識《いしき》を失いそうになるのを必死でこらえながら、暗黒魔法を唱える。傷が急速にふさがって出血が止まる。失われた血液《けつえき》も戻《もど》ってくる。苦痛から解放《かいほう》された反動で、温かい心地良さが全身を包む。  よろめきながら立ち上がった。翼が背後《はいご》に広がっているのを感じる。苦痛のあまり心が乱《みだ》れたので、変身が解《と》けたのだ。  それはたいしたことではない。もう一度変身すればいいだけだ。困《こま》ったのは、矢を引き抜いた際《さい》、鏃《やじり》に布《ぬの》がひっかかって、すでにかぎ裂《ざ》きだらけだったシャツが、さらに大きく裂けたことだった。彼女は自分の姿を見下ろし、悲しい気分になった。布がぺろりと垂《た》れ下がって、ふくらみかけた左胸が大きく露出《ろしゅつ》しており、みっともない。 「おや、かわいいお客さんだこと」  妙《みょう》にかん高い男の声に、はっとして顔を上げた。反射《はんしゃ》的に腕《うで》を交差させ、胸を隠《かく》す。  何列も並《なら》んだ会衆《かいしゅう》用のベンチの向こう、質素《しっそ》な演壇《えんゼん》の横にあるもうひとつの出入口のところに、長身の人影《ひとかげ》が立っていた。声は男だが、長い黒髪《くろかみ》で、全身を覆う花嫁衣裳《はなよめいしょう》のような白いドレスを着て、ランプを手にしている。指がやけに細くて白い。幽霊《ゆうれい》を思わせるが、実体はあるようだ。  顔は分からない。奇妙《きみょう》なことに、仮面《かめん》をかぶっているのだ。木の葉のような形をした白い木の仮面で、目の部分と口の部分は三日月形にくり抜かれ、笑っているように見える。  変身するのは間に合わない。翼《つばさ》を見られてしまった。 「小妖精《フェアリィ》さん? |樹の精霊《ドライアード》さん? それとも|風の精霊《シルフ》さんかしら? 何にしても歓待《かんたい》するわ。お客様なんてめったに来ないから」  仮面の男(男だろうか?)はそう言いながら、優雅《ゆうが》な足取りで近づいてくる。デルはとまどい、胸をしっかりかばいながら、思わず一歩、後ずさりした。逃《に》げるべきかどうか迷う。危害《きがい》を加えられるかもしれないという恐怖《きょうふ》ではなく、得体の知れない相手と出会ってしまったことで、ひどくおびえていた。少女の背中から生えた異様《いよう》な翼を目にしているはずなのに、そいつはまったく動じている様子も、変に思っている様子もない。それになぜ仮面を着けているのか? 「そんなとこに突っ立ってないで」と、男は女のような口調で言った。「どうぞお入りなさいな。ドアを閉《し》めてくださらない? 雨が吹《ふ》きこんでくるから」  とりあえず攻撃《こうげき》してくるつもりはないようだ。デルは警戒《けいかい》しながらも、礼拝堂内に足を踏《ふ》み入れ、左手でドアを閉めた。その際、ドアの上端《じょうたん》に紐《ひも》が結ばれ、それが壁沿《かべぞ》いにいくつかのフックを経由《けいゆ》して、ホール奥の祭壇《さいだん》に設置《せっち》されたクロスボウにつながっていることに気がついた。こんな初歩の罠にひっかかるなんて! 彼女は自らの力を過信《かしん》した不注意をひどく恥《は》じ、続いて、自分にまだ「恥《はじ》」という感情《かんじょう》があることを意外に思った。  雨の音がさえぎられ、室内は静かになっていた。彼女は右手で左胸を押《お》さえながら、勇気をふるって、近づいてきた怪人物《かいじんぶつ》と対峙《たいじ》した。 「あたしはアゾ。この村の司祭よ。あなたは?」 「私は……」  名乗っていいものかどうか、デルが迷っていると、男は「ああ、ちょっと待って」と手を上げてさえぎった。  デルはまた、背筋《せすじ》がぞっとなった。細くて白い指に見えたのは錯覚《さっかく》で、男の手には肉がなく、漂白《ひょうはく》したような真っ白い骨《ほね》だけだったのだ。袖《そで》の奥に見える腕も骨しかないようだ。  よく見れば、髪の毛(おそらく鬘《かつら》)とドレスの襟《えり》で隠してはいるが、頭部も頸椎《けいつい》だけで胴体《どうたい》から支《ささ》えられているらしかった。  こいつもアンデッドなのか。仮面の奥にあるのはドクロに違《ちが》いない。しかし、明らかに自分の意思で喋《しゃべ》っているところを見ると、ゾンビの類ではなさそうだ。 「当ててみせるわ。あなたの雰囲気《ふんいき》からすると……」  アゾは仮面をゆっくりと上下させた。少女の姿《すがた》を上から下まで観察しているのだろう。アンデッドとはいえ、他人にじろじろ見られ、デルは肩身《かたみ》の狭《せま》い思いがした。顔が火照《ほて》るのを感じる。しかし、翼を見られるのが恥ずかしいのか、服が破《やぶ》れているのが恥ずかしいのか、自分でもよく分からない。 「Mのつく名前よね。体の線とか、黒い髪とか、いかにもMのイメージだものね。ミーシャ? マリオン? メグ? メリッサ?」 「…………」 「違うの? ああ、そうか。モリイね!」 「いえ——」 「やっぱり!」アゾは得意げに言った。「あたしは人の名前を当てるのがうまいのよ。よろしくね、モリイ」  有無《うむ》を言わせぬ口調に、デルは反論《いんろん》する気も起こらず、モリイでいいやと思った。こんな状況《じょうきょう》でアンデッドと口論するのも馬鹿《ばか》馬鹿しい。 「ちょっと待っててね」  と言うと、アゾは祭壇に設置された大型のクロスボウに歩み寄り、ハンドルを回して弦《つる》を巻き上げはじめた。祭壇は白木を組み立てて台にしただけの質素《しっそ》なもので、やはり宗派《しゅうは》を表わすものは何もない。 「ごめんなさいね。このところ物腰《ぶっそう》なもんだから。山賊《さんぞく》がうろついてて。こんな仕掛《しか》けのひとつもないとね——怪我《けが》はなかった?」 「ええ……」  デルはますます困惑《こんわく》した。なぜこんな質問をするのだろう。さっきの悲鳴は聞こえただろうし、床《ゆか》に飛び散った血も見えているはずなのに。  もしかしたら、愚《おろ》かなふりをして油断《ゆだん》させるつもりなのだろうか。だとしたら、あまりにも見え透《す》いている。ひっかかるのはよほどの愚か者だ。人生の目的を失い、もはや自分の生命など惜《お》しくないデルだったが、やはり露骨《ろこつ》な罠《わな》にかかってマヌケな死に方をするのはごめんだった。同じ死ぬにしても、ましな死に方をしたい。  そんな彼女の困惑などまるで眼中《がんちゅう》にないかのように、アゾは新しい矢をセットし終えると、振《ふ》り返って言った。 「道に迷ったの? お腹《なか》は空《す》いてない? ちょうど夕食の準備《じゅんび》にかかろうと思ってたところ。あなたの分も用意するわ。いかが?」  アンデッドの食事——どんなものが出てくるか想像《そうぞう》し、デルは胸《むね》がむかついた。 「いえ、結構《けっこう》で……」 「あら、そう! ぺこぺこなのね! さっそく用意しなくちゃね!」  陽気にそう言うと、アゾは楽しげな足取りで奥《おく》に向かった。デルはため息をついた。どうやらこいつは、こっちの話を聞く気はないらしい。  しばらく調子を合わせてみるしかない。  予想に反して、食堂のテーブルに並《なら》んだのは、腐《くさ》った人肉でも生血でもウジ虫でもなかった。しかし、食欲をそそるものでもない。アゾが「シチュー」と呼んでいるのは、皿に入った茶色い泥水《どろみず》だ。「サラダ」は雑草《ざっそう》の葉で、「ポテト」は粘土《ねんど》の塊《かたまり》、「ハム」は丸く切った紙、「ワイン」はただの水……小さな子供《こども》がままごと遊びで作るような代物《しろもの》だが、食器だけは上等だ。  手を合わせ、神への祈《いの》りらしいものをぶつぶつとつぶやくと、アゾは食事をはじめた。スプーンで「シチュー」をすくい上げては、仮面の口の部分に持っていってすするまねをし、「うーん、我《われ》ながらいい味つけね!」「やっぱりこんな日に温かいシチューは最高よね」などと自画|自賛《じさん》する。考えてみれば、食道も胃袋《いぶくろ》もない骨だけのアンデッドが何かを食べられるはずがない。もう死んでいるのだから、何も食べなくてもいいはずだ。食べているふりをするだけで充分《じゅうぶん》なのだろう。  それにしてもアゾの口調は大真面目《おおまじめ》で、ふざけて子供っぽい遊びをしているようにも思えなかった。まるで本当に食事を楽しんでいるようなのだ。 「あなたもお食べなさいな、モリイ。遠慮《えんりょ》なんかしないで。シチューは冷めたらおいしくなくなるわよ」  言われてデルは、恐《おそ》る恐るスプーンで泥水をすくった。それを口に持っていき、すするふりだけして、皿に戻《もど》す。 「どう、お味は? おいしい?」 「ええ、とても……」 「そう、それは良かった! いくらでも召《め》し上がれ。お代わりはあるから。雨が降《ふ》ってるわね。今夜は泊《と》まってお行きなさい。空いている部屋はあるわ。朝食も用意してあげる」  デルは小声でおざなりな感謝《かんしゃ》の言葉を述《の》べた。馬鹿《ばか》馬鹿しいと思いつつも、雑草や紙をフォークでつついたり、泥水をすくったりして、食べるまねを続ける。アゾはご満悦《まんえつ》だった。本当に彼女が食べていると思っているようだ。  朝になったらまた山に鳥を狩《か》りに行こう、とデルは思った。この分では朝食も似たようなものだろうから。 「あの村のゾンビたち……」デルは思いきって訊《たず》ねた。「あれはあなたがやったの?」 「えっ、村の何って?」 「村の人たち。みんなゾンビに……」 「ああ、村の人たち! みんないい人ばかりよ。みんなあたしを慕《した》ってくれるし。牧場を営《いとな》んでるクレイグさんは、毎朝、新鮮《しんせん》なミルクを届《とど》けてくれるの。大工仕事も得意でね、この前もただで塀《へい》を直してもらったわ。未亡人《みぼうじん》のマイアさんは、ちょくちょく教会のお掃除《そうじ》に来てくれるの。こんな大きな建物だから、お掃除はけっこう大変なのよ。ダルトンさんからはこの前、パンをどっさりいただいたわ。彼の娘《むすめ》さんの病気を治してあげたんで、そのお礼にね。そうそう、息子《むすこ》さんのバートも、素直《すなお》ないい子ね。小さい頃から知ってるけど、とてもたくましい好青年に育ったわ。この前からレイマーさんとこのリンダと恋仲《こいなか》になってね、もうじき結婚《けっこん》する予定なの。もちろん、式ではあたしが祝福することになってるわ」  アゾはとにかくよく喋《しゃべ》り、デルが口をはさむ暇《ひま》がなかった。村の誰《だれ》それと誰それは仲が悪くて困ってるとか、誰それの家の子供が夜中に熱を出したとか、誰それの焼くクッキーは甘《あま》くておいしいとか、こと細かに語ってみせる。聞いていると、平和な村の平凡《へいぼん》な日常《にちじょう》が脳裏《のうり》に浮《う》かんでくるようだ。  すべて虚構だが。 「司祭って言ってたけど」ようやくアゾの話が途切《とぎ》れたので、デルはまた質問《しつもん》した。「どんな神様を崇拝《すうはい》してるの? ラーダ? マーファ? それとも……」  ファラリス、と言いたかったが、彼女はこらえた。 「ふふっ」アゾは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。「あたしの神様はそんなんじゃないわ。もっと偉大《いだい》なお方よ」 「誰なの?」 「名前なんてないわ。AからZまで、すべてのイメージを含《ふく》むお方。あまりにも偉大すぎて、どんな名前もつけられないお方なのよ」  名もなき狂気《きょうき》の神か。  デルは納得《なっとく》した。名もなき狂気の神の信者は、みな深い狂気に蝕《むしば》まれており、独自《どくじ》の論理《ろんり》に従《したが》い、普通《ふつう》の人間から見れば理屈《りくつ》に合わない行動をする。村人の死体にあんな悪趣味《あくしゅみ》なことをさせるのも、翼《つばさ》を見ても驚《おどろ》かないのも、おかしな言動の数々も、こいつが名もなき狂気の神の暗黒司祭《ダークプリースト》だとすれば不思議ではない。  やがて食事が終わると、アゾはまた手を合わせて、狂気の神に感謝を捧げた。 「さあ、モリイ。お部屋に案内するわ」  デルはおとなしくアゾについて行った。警戒《けいかい》心はいくらか薄れていた。胸《むね》を隠《かく》すのもいつの間にか忘《わす》れている。自分を女だと思いこんでいるアンデッドに胸を見られるのが、はたして恥ずかしがるべきことなのか、よく分からなくなってきていた。こいつの狂気がいくらか伝染《でんせん》したのかな、と思う。  案内されたのは二階の通路の突《つ》き当たりにある部屋だ。何年も使っていないらしく、蜘蛛《くも》の巣だらけで、壁《かべ》には雨漏《あまも》りの大きな染《し》みがあり、黴臭《かびくさ》かった。アゾによれば「マイアさんが定期的にお掃除してくれている」はずなのだが。  アゾが「お休みなさい」と言って部屋を出ると、デルはさっそく部屋の中を徹底《てってい》的に調べた。壁から毒針《どくばり》が飛び出してこないか。天井《てんじょう》は落ちてこないか。床《ゆか》に落とし穴《あな》はないか。ベッドの下には仕掛《しか》けはないか……さっきの失敗の轍《てつ》を踏《ふ》むまいと念入りに点検《てんけん》したが、何もなさそうだった。  衣裳《いしょう》ダンスの中に女物の衣類を見つけた。ここに住んでいた(本物の)司祭のものだろうか。背中《せなか》の大きく開いたドレスを見つけたので、着替《きが》えることにした。これなら翼があっても着られる。黴臭かったし、彼女には少し大きかったが、ボロボロになった服よりはましだろう。  アゾに敵意《てきい》はないようだったが、狂ったアンデッドを完全に信頼《しんらい》するわけにはいかない。念のため、ドアに鍵《かぎ》をかけたうえ、小さなテーブルを動かしてふさいだ。無理に押《お》し入ってこようとしたら、テーブルが音を立てて倒《たお》れるので、目が覚めるはずだ。  ようやく安全を確信《かくしん》すると、デルはベッドにうつ伏《ぶ》せに倒れこんだ。埃《ほこり》がばっと舞い上がる。今日はいろいろありすぎて疲《つか》れた。もう起き上がりたくもない。疑問《ぎもん》はいっぱいあるが、考えたくない。  眼《め》を閉《と》じると、彼女はすみやかに眠《ねむ》りに落ちた。  こうして、少女とアンデッドの奇妙《きみょう》な日々がはじまった。  毎朝、アゾは夜明けの鐘《かね》を鳴らした後、少女を起こしに来る。二人はいっしょに食事をする。四角い木切れのパン、泥《どろ》のバター、木炭《もくたん》のクッキー、泥水のお茶。  奇怪《きかい》な朝食が終わると、デルは一人で山に散歩に出かける。本当の食事をするためだ。暗黒魔法で鳥を落とし、あるいは清流の中にいる魚を殺して、火を熾《おこ》して焼いて食べる。川の水を飲んで渇《かわ》きを癒《いや》す。これで一日は持つ。時には本物のパンが恋《こい》しくなることもあるが、我慢《がまん》するしかない。雨風をしのげる家があるだけでも、魔獣《まじゅう》としては贅沢《ぜいたく》すぎるというものではないか。  衣服にも不自由しなかった。教会にも村の家々にも、探《さが》せば女物の服がいっぱいあった。虫食いでぼろぼろになったものも多かったが、着られるものも何着も見つけた。特に彼女が気に入ったのは、スカート丈《だけ》が脛《すね》まである喪服《もふく》だった。黒は自分の好きな色だ。サーラも似合《にあ》うと言ってくれた。翼の色とも合う。それに死者の村で暮《く》らすのに、喪服以上にふさわしい衣裳があるだろうか?  サイズはやや大きめだったが、裁縫《さいほう》道具も見つけたので、仕立て直すのは難《むずか》しくなかった。服の背面《はいめん》を大きく切り開き、首から腰のあたりまで背中を霧出《ろしゅつ》させて、翼が自由に出し入れできるようにした。変身して翼をしまっておくことはできたが、元の姿《すがた》に戻《もど》るたびに服が破《やぶ》れるのが嫌《いや》だったのだ。  太陽が真南に来る頃、アゾは正午の鐘を鳴らす。それを聞いたデルは教会に戻ってきて、「昼食」をつき合う。  午後はアゾといっしょに村の中をぶらつく。最初の数日はやはり気味悪かったが、慣《な》れというのはたいしたもので、すぐにゾンビたちの間を歩き回ることを当たり前のように感じるようになった。  さすがに陽射《ひざ》しは苦手なのか、アゾは外出の際《さい》には爪先《つまさき》まですっぽり隠れる長いスカートを穿《は》き、手には手袋《てぶくろ》をして、フードを深くかぶる。ゾンビに出会うと、いちいち「こんにちは、レイマーさん」とか「元気そうね、レティシア」などとあいさつする。無論《むろん》、ゾンビは何も答えないのだが、彼の耳には返事が聞こえているかのようだ。時には立ち止まり、何も言わないゾンビを相手にえんえんと長話をすることもある。アゾはただ喋《しゃべ》るだけでなく、相手の(架空《かくう》の)問いかけに答えたり、「そうそう」とか「ええ、まったく」とか「そうじゃないかと思ったのよ」と相槌《あいづち》を打ったりもする。  まったく理解《りかい》できないひとり言を、デルは横で黙《だま》って聞いている。ちょくちょく「あなたはどう思う、モリイ?」と話を振《ふ》られることがあるが、「ええ、たぶん」とか「私もそう思います」とか曖昧《あいまい》な返事でごまかす。それでもアゾには正しい返答のように解釈《かいしゃく》されるらしい。お喋りは支障なく続けられる。  よく聞いていると、ゾンビたちの役割《やくわり》は日によって少しずつ違《ちが》っているようだ。ある日には「牧童のロム」と紹介《しょうかい》されたゾンビが、次の日には「レン」と呼ばれ、酒場で働いていることになっている。ある日には「セドナ」という名の若奥《わかおく》さんだった女のゾンビが、いつの間にか未婚《みこん》の「シャーラ」になっている。何十体ものゾンビの名前と職業《しょくぎょう》をすべて暗記するのは、狂ったアンデッドの頭では難《むずか》しすぎることなのだろう。役割はその日の気まぐれで、なかば即興《そっきょう》で決められているらしい。だが、アゾ自身はまったく矛盾《むじゅん》に気がついていないように見える。連続|性《せい》などどうでもよく、その場その場のつじつまさえ合っていればいいようだ。  彼はデルにもよく話しかけてきた。お茶は熱いのが好きかぬるいのが好きか。来年の収穫条《しゅうかくさい》でダンスを踊《おど》ってみないか。村の男の子の中で誰がいちばんかっこいいと思うか……しかし、決して「あなたは誰?」とか「どこから来たの?」というような当然の質問《しつもん》は口にしない。翼《つばさ》のことも訊《たず》ねない。そんなことは彼にとって関心外なのだろうか。デルも自分から事情を説明するつもりはなかった。話したって無駄《むだ》だろうと思う。最初の夜の会話で分かったように、アゾは自分の創《つく》った設定《せってい》に合わない言葉は、都合よく無視《むし》するのだ。 �モリイ�の設定も変化した。最初は「山を歩いていて迷子《まいご》になった少女」だったのが、いつの間にか「司祭の見習いとして教会にやって来た」ことになり、さらに「遠くの親戚《しんせき》から預《あず》かった子供《こども》」になった。デルが村に来て一週間目には、�モリイ�はアゾの妹で、ずっと前からこの村で暮《く》らしていることになっていた。設定が変わるたびにデルは少しとまどったものの、特に不満を洩《も》らす理由もなく、与《あた》えられた役割を従順《じゅうじゅん》に受け入れ、アゾに話を合わせた。  不思議なことに、�モリイ�という名前だけは一貫《いっかん》していた。その名を口にする時の彼の口調には、深い愛着が感じられる。もしかしたら本当に、生前の彼の妹の名なのかもしれない、とデルは思った。  アゾを理解することは不可能《ふかのう》だった。だが、その存在《そんざい》を許容《きょよう》することはできた。彼はおそらく、現実《げんじつ》を完全に拒否《きょひ》し、空想の世界で生きているのだろう。本当は男なのに、自分を女だと思いこんでいる。とっくに死んでアンデッドになっているのに、まだ生きていると思いこんでいる。村人もみんな元気だ。かわいい妹の背中《せなか》に翼なんか見えない。自分の周囲の世界は何もかも正常《せいじょう》だ……。  普通《ふつう》の人間からはおかしく見えても、彼の歪《ゆが》んだ世界観からすれば、何もかも筋の通ったことなのだろう。  陽《ひ》が落ちると教会に戻り、夕べの鐘《かね》を鳴らした後、また二人で「夕食」を取る。食事の間もずっと話し合っている。とりとめのない質問、曖昧《あいまい》な返答、明らかな虚構、成立しない会話——二人は互《たが》いに相手を理解していないし、理解しようという気すらない。目の前にいるというのに、厚《あつ》い壁《かべ》によって隔《ヘだ》てられているかのように、相手の真の姿は見えていない。  夜が更《ふ》けると「おやすみなさい」を言ってベッドに入り、一日は終わる。そしてまた陽が昇《のぼ》り、虚構の一日がはじまる。  ある意味、ここはデルにとってくつろげる場所だった。翼を目にしているはずなのに認識《にんしき》していないらしいアゾ。そもそも意識すらないゾンビたち。彼らの前では、人間に化ける必要はない。ありのままの自分でいられる。誰かに咎《とが》められることも、恐《おそ》れられることもない。奇異《きい》の目で見られることもなく、羞恥《しゅうち》心にも劣等《れっとう》感にも罪《つみ》の意識にも苛《さいな》まれることはない。その一方で、死者たちとはいえ、人の姿《すがた》をして常《つね》に動いているものが周囲にいることで、さほど孤独《こどく》を感じずに済《す》んだ。  時間はたっぷりあったので、空を飛んで、村の周囲をあちこち探索《たんさく》した。近くの村に通じる道は、森の中を通っているのだが、何年も使われていないらしく、雑草《ざっそう》に埋《う》もれかけていた。よほど好奇心《こうきしん》の強い者でなければ通ろうとしないだろうし、財宝《ざいほう》もないのだから冒険者《ぼうけんしゃ》も訪《おとず》れるはずがない。その気になれば、外界と隔絶《かくぜつ》した環境《かんきょう》で、この先何十年でも平穏《へいおん》に暮《く》らしていけそうに思えた(それは甘《あま》い考えであることをじきに思い知らされるのだが)。  教会の裏手《うらて》の森には墓地《ぼち》があった。正確《せいかく》に言えば、かつて墓地であった場所だ。今は墓標がすべて倒《たお》され、地面には何十もの穴《あな》が開いている。穴の底には泥水《どろみず》が溜《た》まっていた。アゾがここから死体を調達したのは明白だ。  疑問《ぎもん》はいろいろあった。アゾはなぜ狂《くる》ったのか。ゾンビたちにあんな芝居《しばい》をさせることを思いついたのは、そもそもどんな動機からだったのか。村を全滅《ぜんめつ》させたのは本当に疫病《えきびょう》なのか。アゾはただ墓場《はかば》を掘《ほ》り起こし、死体を見つけただけなのか。もしかしたら、病気に見せかけて暗黒魔法で虐殺《ぎゃくさつ》したのではないのか……。  確《たし》かめる方法はない。質問したってはぐらかされるに決まっている。いや、アゾには質問の意味すら理解《りかい》できないのではあるまいか。「村の人が死んだ? いったい誰が死んだって言うの?」と。村人をゾンビにしたことすら忘《わす》れているようでは、それ以前の記憶《きおく》も失われているに違いない。  そもそも真実を確かめて何になる——と、彼女は自問自答した。アゾの罪を咎められるのか? 罪を犯《おか》したことさえ覚えていない者を? それに、邪悪《じゃあく》な存在である自分に、他人の罪をとやかく言う資格《しかく》があるのか……?  アゾと暮らした二週間ずっと、平穏な心境《しんきょう》だったわけではない。あの夜の出来事のフラッシュバックは、頻繁《ひんぱん》にデルを苦しめた。何日かに一度、ひどく絶望《ぜつぼう》的な気分になり、真剣《しんけん》に死を考えることがあった。  どうやって死のうかと思い悩《なや》んだ。強靭《きょうじん》な肉体を有する魔獣《まじゅう》の息の根を止めるのは、かなり難《むずか》しそうだ。湖に飛びこんでも、溺死《できし》するまでにいったい何分苦しまねばならないだろうか。毒薬もよほど強力なものでないと効果《こうか》がないだろう。崖《がけ》から飛び降《お》りても生き残るかもしれない。中途《ちゅうと》半端《はんぱ》な負傷《ふしょう》はただ痛《いた》いだけで、意味がない。クロスボウで撃《う》たれた時のように、傷《きす》を負っても本能的に治癒呪文《ちゆじゅもん》を唱えてしまうだろうから。  いろいろ考えた末、首を切断《せつだん》するのがいいのではないかと思った。翼のうち上の二|枚《まい》は、縁《ふち》が刃物《はもの》のように鋭《するど》く、堅《かた》い革鎧《かわよろい》でさえ切り裂《さ》ける。それを交差させて首に当て、ハサミで斬《き》るように一気に切断すればいい。痛みは一瞬《いっしゅん》で、すぐに死ねるだろう。  実際《じっさい》に翼を首に当ててみたものの、なかなか決心がつかなかった。死ぬのが怖《こわ》かったのではなく、どうしても死なねばという強い意志《いし》が湧《わ》いてこなかったのだ。  自殺というのはただ何となくできるものではないと、彼女は思い知らされた。魂《たましい》がどんなに苦しもうと、やはり腹《はら》は減《へ》る。人間よりもはるかに強い生命力を有する肉体が、生きたいと望んでいる。空っぽの心では、それに勝てない。迷っているうちにだんだん馬鹿《ばか》らしくなってきて、死ぬのをあきらめる——その繰《く》り返しだ。  もっとも、その気になればいつでも死ねるという事実は、ある意味、彼女にとって慰《なぐさ》めとなった。何百年も生き続けることを想像《そうぞう》し、絶望することはなくなった。嫌《いや》になればいつでも現実《けんじつ》から逃《に》げ出せるのなら、急いで死ぬことはない。もうちょっと回り道してみたってかまうまい。  考える時間はたっぷりあった。死以外のこともいろいろ考えた。サーラのことは特によく思い出した。  彼に出会うまでの三年あまり、彼女の心はずっと闇《やみ》の中にあった。誰にも自分の心を理解してもらえなかった。八|歳《さい》の時に四人の男たちから受けた暴虐《ぼうぎゃく》はあまりにも苛酷《かこく》で、誰にも話すことができなかったのだ。心に受けた傷は深かったが、他人に傷をさらけ出せば、さらに激《はげ》しい痛みを生んだだろう。心の中にしまいこみ、自分だけでじっと耐《た》えるしかなかった。  空しい日々だった。心臓《しんぞう》は動いていたが、生きているとは言えなかった。心は死んでいた。つらい現実から逃《のが》れるために、外界を拒否《きょひ》した。あらゆるものに無感動だった。仮面《かめん》のように無表情《むひょうじょう》で、笑うことも泣くことも忘れていた。  あの頃《ころ》の自分はゾンビだった——思い返して、彼女はそう感じた。  ドレックノールの「闇の王子」ジェノアからの接触《せっしょく》があった時、彼女はそれを拒否できなかった。ファラリスへの入信と、ザーンに対する裏切り——そんな忌《い》まわしい誘《さそ》いなど、きっぱり断わるべきだった。大人たちに通報《つうほう》するべきだった。ジェノアはザーンの敵であると同時に、父を殺し、自分を辱《はずかし》めた者たちの上司なのだ。そんな奴《やつ》の仲間になどなれるはずがないではないか。  にもかかわらず、ジェノアは接触してきた。彼女が仇《かたき》であるはずの自分の味方になってくれるはずだという、不可解《ふかかい》な確信を抱《いだ》いて。  いや、決して不可解ではない。ジェノアは勝つ見こみのない賭《か》けなどしない男だ。そのうえ人間の心理を見抜《みぬ》くのに長《た》けている。彼が「可能だ」と信じて実行に移《うつ》したなら、それは可能なはずなのだ。  それを知っていたからこそ、彼女の心は動いた。ジェノアが自分の中に何を見たのか、知りたくなった。彼はなぜ、私がファラリス信者になると思ったのだろうか。なぜ私が悪人の味方になどなると思ったのだろうか……?  彼女は自分を理解してくれる人を求めていた。同時に、自分自身を理解したかった。  ジェノアやその手先たちと何度か接触するうちに、彼女はしだいに自分の中にあるものに気がついていった。ジェノアに見えたもの——圧倒《あっとう》的な心の闇。今はまだ眠《ねむ》っているが、目覚めさえすれば、たちまち花開く力。その気になれば国を支配《しはい》し、世界を滅《ほろ》ぼせるほどの力。  そんな心の闇こそ、ファラリスの愛するものだ。それは幸福に育った者には決して宿らない。この世が暴力と不条理《ふじょうり》に支配されていることを痛感《つうかん》している者、愛は無力で幸福ははかないものだと身に染《し》みて知っている者だけが、地獄《じごく》に続く底なしの闇を覗《のぞ》きこみ、ファラリスの声を聞くことができるのだ。  それでもなお、デルは決定的な一歩を踏《ふ》み出すのをためらっていた。踏み出してはいけない理由を探《さが》し求めた。社会の規範《ぎはん》だの法だのは、この際《さい》、どうでもいい。自分の心の中に、誘惑《ゆうわく》を拒否する理由があるかどうかだ。  見つからない——考えれば考えるほど、ジェノアの言う通り、自分がファラリスに入信するのは必然であり、自然なことのように思われた。それが彼女をおびえさせた。自分が邪悪《じゃあく》だと認《みと》めることが恐《おそ》ろしかった。  そんな時、サーラが現《あら》われた。なぜ彼を好きになったのか、自分でも説明できない。他の少年たちと何が決定的に違《ちが》ったのか。あるいは時期の問題だったのかも。ジェノアから誘惑を受け、心が揺《ゆ》れていたあの時期に出会わなかったら、愛など芽生えなかったかもしれない。  何にせよ、恋《こい》に落ちるのに明確《めいかく》な理由などない。雷《かみなり》に打たれるように、唐突《とうとつ》に、何の必然|性《せい》もなく、それは襲《おそ》ってくるものなのだ。  新たな苦しみが生まれた。サーラの登場は、心を覆《おお》っていた闇のカーテンを引き裂《さ》き、ひとすじの光を差しこんだ。自分は死んではいない、まだ人を好きになれる感情があるという事実は、彼女をいっそうおびえさせ、悩《なや》ませた。人を愛することは、彼女にとって恐怖《きょうふ》だった。それは裏切《うらぎ》られるのではないかという不安と表裏《ひょうり》一体だった。  そもそも誰《だれ》かを愛したからといって、何がどうなるというのか。どんなに愛しても、想《おも》いを打ち明けられない。打ち明けられるはずがない。愛するからには仮面をかなぐり捨て、素顔《すがお》をさらさなければならない。だが、愛する少年に心の闇《やみ》をさらけ出す勇気など、私にはない。そんなことをしたら恐れられ、嫌《きら》われるに決まっている。  そうだ、サーラに愛される資格《しかく》なんて、私にはない。あきらめよう。たとえ愛されなくても、遠く離《はな》れても、彼が生きていてくれるというだけで私は満足だ……彼女は一度はそう決心した。  それなのに。  サーラはファラリスに入信しようとしていた自分を救うために、危険《きけん》を冒《おか》して駆《か》けつけてきてくれた。皮肉にもそれが、最後のひと押《お》しとなった。少年の勇気ある行動を目にして、屈服《くっぷく》するしかなくなった。サーラを好きでないふりをして自分を偽《いつわ》ることが、もはや不可能になった——「欲望《よくぼう》のままに生きよ」というファラリスの教えの、実の意味に目覚めた。  私はサーラが好き。彼に死んで欲《ほ》しくない、彼に愛されたい。この欲望を封《ふう》じるのは間違っている。たとえ邪悪であっても、私のこの想いは本物だから。  事情を何もかも知っても、サーラは嫌わなかった。デルの愛を受け入れた。邪悪な面も含《ふく》めて、すべてを。  何と幸福な日々だったんだろう、と彼女は懐《なつ》かしんだ。素晴《すば》らしい少年を愛し、愛された。彼といる時間のすべてが楽しかった。いっしょに秘密《ひみつ》の冒険《ぼうけん》をした。数えきれないほどのキスをした。夢《ゆめ》を語り合った。  だが、同時に不安だった。どんなに楽しい時を過《す》ごしていても、心の底から没頭《ぼっとう》できなかった。いつかこの幸せが終わるに違いないという、確信のようなものが常《つね》にあった。今から思えば予感だったのかもしれない。それが彼女をあせらせた。もっと大きな幸福を求め、もっと強い絆《きずな》を求めた。  そして、あんな結果になった。  あせらなければよかった。もっとゆっくりと愛を育《はぐく》んでいけばよかった。後悔《こうかい》しても取り返しはつかない。自分の犯《おか》した大きなあやまちを償《つぐな》うために、さらに大きな罪《つみ》を犯すしかなかった。サーラを呪《のろ》いから解《と》き放つことはできた。だが同時に、永遠《えいえん》に別れるしかなくなった。  二度とサーラに会えない。  それを考えると、涸《か》れたはずの涙《なみだ》がまたこぼれた。いつになったらこの苦しみから解放《かいほう》されるのだろう。クロスボウで撃《う》ち抜《ぬ》かれた傷《きず》なら、呪文《じゅもん》ひとつで癒《いや》せる。だが、心にぽっかり開いたこの大きな穴《あな》は、どうすれば癒せるのだろう……?  今の自分はサーラに出会う前に戻《もど》った、とデルは感じていた。肉体は生きていても、心は死んでいる。私はゾンビだ。この村の人たちと同じ。ある意味、この村は私に似合《にあ》っている。  村を去らず、アゾといっしょに暮《く》らすことを選んだのは、そこにかすかな希望を見出《みいだ》したからだ。現実《げんじつ》を拒否《きょひ》し、心地《ここち》よい空想の中で暮らしているアゾ。彼のように生きられればいいと思った。サーラのことも、過去《かこ》に起きたことすべても、このおぞましい姿《すがた》のことも、何もかも忘《わす》れ、狂気《きょうき》の中で生きられるなら幸せではないか。  そう思って、アゾに調子を合わせて振《ふ》る舞《ま》った。彼を真似《まね》ていれば、しだいに狂気が伝染《でんせん》し、ついには妄想を完全に共有できるのではないか。幸福な虚構《きょこう》に逃避《とうひ》できるのではないか——そんな気がした。  だが、二週間もいっしょに暮らしても、そんな兆候《ちょうこう》は現われなかった。いつになってもサーラのことを思い出し、涙《なみだ》を流した。フレイヤを刺《さ》した瞬間《しゅんかん》がフラッシュバックし、胸《むね》が痛《いた》んだ。自分が魔獣《まじゅう》であるという事実を忘れることはできなかった。  空《むな》しいと思いつつも、村にとどまり、アゾの相手をし続けた。他《ほか》に行くところもない。広い世界の中で、安らぎに近いものが得られるのは、この死者の村しかなかった。  破局《はきょく》が訪《おとず》れたのは、村にやって来て半月目のことだった。  その朝、例によって森で鳥を殺し、朝食を済《す》ませた後、空を散歩した。高空から風景を見下ろすのは気晴らしになる。いつもなら昼まで飛び回るのだが、その日は何となく気が乗らず、早めに切り上げて村に戻った。  デルはすぐに、村の様子がおかしいことに気づいた。ゾンビたちがいつもの場所にいない——大人のゾンビも子供《こども》のゾンビも、牛や馬のゾンビも、みんな足をひきずり、土煙《つちけむり》をけたてながら、ぞろぞろと教会の方に歩いてゆく。 「いらっしゃい! みんないらっしゃい!」アゾが教会の入り口に立ち、嬉《うれ》しそうに手を振ってゾンビたちを招《まね》き入れていた。「お祭りよ! 儀式《ぎしき》よ! 神様に感謝《かんしゃ》するのよ! さあ、いらっしゃい!」  デルは不審《ふしん》に思い、樹《き》の陰《かげ》からそれを見ていた。最後のゾンビが教会の中に入ると、アゾはあたりを見回してからドアを閉めた。  デルはいったん森の中まで退《しりぞ》いてから、はばたいて空中に舞い上がった。翼《つばさ》の音で気づかれないように滑空《かっくう》して教会に接近《せっきん》し、ふわりと屋根に着地する。屋根にはガラスのはまった明かり採りの天窓《てんまど》がある。彼女は窓の縁《へり》にしゃがみこみ、礼拝堂《れいはいどう》を見下ろした。  ベンチには老若《ろうにゃく》男女《なんにょ》四〇体ほどのゾンビがぎっしりと座《すわ》っていた。人間だけでなく、犬、牛、馬、鶏《とり》のゾンビまでひしめいている。術者《じゅつしゃ》であるアゾの「みんないらっしゃい」という指示は、必然的にこの村のすべてのゾンビを招集《しょうしゅう》したのだ。アゾは踊《おど》るような大げさな身ぶりで、祭壇《さいだん》の周囲をめぐっていた。ダガーを振り回しながら、例によってわけの分からないことをわめきちらしている。  祭壇の上には少女が横たえられていた。  デルは自分を見下ろしているような気がした。黒くて短く、くしゃくしゃの髪《かみ》、黒ずくめの男の子のような格好《かっこう》。腰《こし》にはダガー。歳も自分と同じぐらいだ。手足はほっそりしているが、よく鍛《きた》えられているのが分かる。自分と同じように盗賊《とうぞく》の修業《しゅぎょう》を積んだのだろうか。無論《むろん》、完璧《かんぺき》にそっくりではない。肌《はだ》は色黒で、顔はちょっときつい感じがする。ハーフエルフなのか、耳は尖《とが》っている。  見たところ、少女には外傷《がいしょう》はなかった。眼《め》を閉《と》じて動かないが、血色は良く、死んでいるのではなさそうだ。暗黒魔法で気絶《きぜつ》させられているだけらしい。  アゾは楽しそうに声を張《は》り上げた。名もなき神への祈《いの》りを捧《ささ》げている。デルは悪い予感を覚えた。これから起きることを予想し、恐怖《きょうふ》のあまり頭がぼうっとなる。  思った通りだった。アゾは祭壇に覆《おお》いかぶさるように立ち、ダガーを高々と振り上げたのだ。少女の胸に突《つ》き立てようとしている。  その瞬間、デルを襲《おそ》ったのは猛烈《もうれつ》な嫌悪《けんお》の情《じょう》だった。人間的なモラルでも、憐《あわ》れみでも、ましてや正義《せいぎ》感でもない。そんなものはもう彼女にはない。ただ、少女がダガーを突き立てられて胸から血を噴《ふ》き出す光景を、もう一度目にすることに耐《た》えられなかったのだ。吐《は》き気を催《もよお》すほどの強烈《きょうれつ》な衝動《しょうどう》が全身を駆《か》け抜《ぬ》ける。息が詰《つ》まる。彼女は迷わず、頭からガラスを突き破《やぶ》って室内にダイブしていた。  ガラスの雨とともに落下、空中で翼を広げて半回転し、アゾの背後《はいご》に着地する。アゾはびっくりして振り返った。 「モリイ……!?」 「やめて」  デルはしゃがんだ姿勢《しせい》からゆっくり立ち上がりながら、静かに言った。 「その子を殺さないで……」 「何を言ってるの?」アゾは無理に笑おうとしていた。「この子はね、新しくこの村の一員になるのよ。そのための儀式なのよ」 「村の人ならもう充分《じゅうぶん》いるでしょう? 私だっている。これ以上、増《ふ》やす必要なんてない」 「モリイ……」 「そのまま無傷《むきず》で帰してあげて。お願い」 「できないわ」 「どうして?」 「この子は、飛んでいるあなたを見たのよ」  デルは息を飲んだ。 「あなたは気がつかなかったでしょうね。この子は森の中で空を見上げてた。あなたの姿《すがた》をはっきり見てたの。だから帰すわけにはいかなかった。後ろから襲って気絶させた。あなたの存在《そんざい》を、村の外の人に知られるわけにはいかないから」  デルは動揺《どうよう》した。少女に姿を見られたことに対してではない。アゾの言うことがあまりにも筋《すじ》が通っていたからだ。  彼は正確《せいかく》に状況《じょうきょう》を認識《にんしき》している。 「でも……私は殺さなかったじゃないの」彼女は必死で訴《うった》えた。「どうして? その子だって生きたままでいいはずじゃない。どうして?」  今度はアゾが動揺する。「あなたは……違《ちが》うのよ」 「何が違うの?」 「あなたは……あたしのことを理解《りかい》してくれる」  デルはぽかんと口を開けた。 「いえ、理解はできなくても、共感してくれる。だって、あたしたちは同じだもの。そうでしょ? あなただって迫害《はくがい》されて、行き場を失って、ここに来たんでしょ? あたしと同じように、癒《いや》しと安らぎを求めたんでしょ?」  彼は白骨《はっこつ》の腕《うで》を広げ、ベンチに並《なら》んでいるもの言わぬ会衆《かいしゅう》を指し示《しめ》した。 「見て! この村は安らぎを与《あた》えてくれる。誰もあたしたちを恐《おそ》れない。誰もあたしたちを憎《にく》まない。みんないい人たち。静かな村。ここでの暮《く》らしは癒される。ここはあたしにとって理想の世界なのよ!  前はこんなじゃなかった。この人たちも前は、くだらないことをぺちゃくちゃ喋《しゃべ》りまくっていた。あたしの姿を見て、恐れ、憎《にく》んだ。鍬《くわ》を振《ふ》り上げて追い払《はら》おうとした。でも、今はもうそんなことはない。みんな変わった。長い時間をかけて、あたしが村を変えていったの。見て。もうみんな、あたしを見て悲鳴を上げたりしない! みんなお友達。  あなたもそう。ひと目見て分かったわ。あなたはあたしと同じ。癒しを求めてるって。だからあなたを迎《むか》え入れたの。分かるでしょ。モリイ? あなたにとって必要なのはこの村なのよ。そして、あたしにもあなたが必要。あなたがいると癒される。共感してくれるという人がいるだけで、あたしはとても癒される」  アゾの長広舌《ちょうこうぜつ》を聞いているうちに、デルの心に深い失望が広がっていた。  騙《だま》されていた。  アゾは異常《いじょう》ではあったが、自分のしていることを理解できないほど狂《くる》ってはいなかった。すべて理解していながら、理解していないふりをしていただけだったのだ。無論《むろん》、狂気《きょうき》を演《えん》じるなどという行為《こうい》そのものが一種の狂気である。村人を殺したことも含《ふく》めて、彼が名もなき狂気の神の暗黒司祭《ダークプリースト》としての資格《しかく》があることは疑《うたが》いがない。デルが腹《はら》を立てたのは、彼が現実《けんじつ》を正しく認識していたという事実である。純粋《じゅんすい》の狂気、現実が理解できないほどの狂気なら許《ゆる》せる。それはもはや人が裁《さば》けるような善悪《ぜんあく》の範疇《はんちゅう》を超《こ》えているからだ。だが、知っていて狂気を演じていたのなら……。  裏切《うらぎ》られた——デルは歯ぎしりした。アゾのように振る舞《ま》えば、いつか彼のように狂気の世界に入れると思っていた。安らぎが得られると思っていた。だが、それは嘘《うそ》だった。アゾはやはり現実の世界に生きていた。アゾと村人たちの間に過去《かこ》に何があったか、そんなことはどうでもいい。知りたくもない。  ふつふつと怒《いか》りが湧《わ》いてきた。 「ねえ、モリイ」アゾは愛《いと》しげに腕《うで》を差し伸《の》べてきた。「これからも仲良くしましょう。そんな翼《つばさ》なんか気にしないわ。あなたが何者かなんてどうでもいい。いっしょに暮らして。そして、あたしを癒して」  デルは答えない。アゾはさらに一歩を踏《ふ》み出し、彼女の手を握《にぎ》って懇願《こんがん》する。 「あたしといっしょに生きて! あたしの愛しい妹!」  次の瞬間《しゅんかん》、デルは精神《せいしん》に衝撃《しょうげき》を受け、めまいのような感覚を覚えた。アゾが暗黒|魔法《まほう》をかけてきたのだと分かった。聞いたことがある。名もなき狂気の神の暗黒司祭《ダークプリースト》は、人に呪《のろ》いをかけ、心に狂気の種を植えつけられるという。まともにものを考えることができなくなり、狂った術者《じゅつしゃ》の意のままに従《したが》うようになるのだ。  人間であったなら、デルはあっさりその呪いにかかっていただろう。だが、今の彼女は魔法に対する抵抗力《ていこうりょく》も高い。めまいはすぐに去り、彼女は本来の自分を取り戻《もど》した——悪魔の心を持つ少女としての自分を。  魔法が効《き》かなかったので、アゾはたじろぎ、後ずさった。デルはにんまりと笑った。これで決まった。もう迷いはない。攻撃《こうげき》してくる者は敵だ。 「そんなに癒して欲《ほ》しいの?」デルは優《やさ》しく、意地悪くささやいた。「いいわ、癒してあげる」  そして手をアゾに差し伸べ、治癒呪文《ちゆじゅもん》を口にした。  アゾは金切り声を上げた。のけぞり、身をよじり、のたうち回り、まるで息が苦しいかのように仮面《かめん》をかきむしって苦悶《くもん》する。普通《ふつう》の人間や動物の傷《きず》を癒す治癒魔法は、負の生命力を持つアンデッドには反対の効果《こうか》を発揮《はっき》する。それは負の生命力を打ち消し、アンデッドを消滅《しょうめつ》に導《みちび》くのだ。 「や、やめろお!」  アゾは懇願する。動転したあまり女を演じられなくなったのか、男の声になっていた。デルは耳を貸《か》さない。苦悶するアンデッドを見て快感《かいかん》を覚えていた。とどめの治癒呪文を放つ。アゾは耐《た》えられなくなり、床《ゆか》に膝《ひざ》をつく。 「こ……この子を殺せえええーっ!」  最後の力を振り絞《しぼ》り、デルを指さしてそう叫ぶと、アゾは力|尽《つ》きて床に崩《くず》れた。かしゃん、という乾《かわ》いた音がした。  ベンチに座《すわ》っていたゾンビがいっせいに立ち上がり、ぞろぞろと向かってきた。デルは迷わない。手の平をゾンビの群《む》れに向け、アンデッドを浄化《じょうか》する「|聖なる光《ホーリー・ライト》」を放つ。彼女の手から発した閃光《せんこう》を浴びると、前列のゾンビたちが立ち止まり、顔を押《お》さえて苦悶した。後ろから押し寄せてくるゾンビと押し合いへし合いになる。もう一撃、「|聖なる光《ホーリー・ライト》」を放つと、数体のゾンビがばたばたと倒《たお》れた。  だが、前列の者に光がさえぎられ、後列のゾンビはまだ無傷だった。暗黒司祭《タークプリースト》に与《あた》えられた最後の命令を守るべく、腕を前に突《つ》き出し、ベンチを乗り越え、倒れた仲間を踏《ふ》みつけて、よたよたと迫《せま》ってくる。さすがにこれだけの数のゾンビを魔法で倒すのは疲《つか》れる。デルはやむなく接近《せっきん》戦に切り替《か》えることにした。  群れの中に飛びこんだ。ゾンビたちは包みこむように押し寄せてくる。デルは四|枚《まい》の翼を振《ふ》り回し、いっぺんに何体もの敵を切り裂《さ》いた。ゾンビたちは、腹を裂かれ、首を斬《き》り落とされ、胸《むぬ》を貫《つらぬ》かれ、悲鳴ひとつ上げずにばたばたと倒れていった。  デルは死のダンスを舞った。軽《かろ》やかに跳《は》ね、くるくるとスピンし、翼を振るった。殴《なぐ》りかかってくる男を、抱《だ》きついてこようとする女を、這《は》うように迫ってくる老人を、よちよちと歩いてくる子供《こども》を、飛びかかってくる鶏《とり》を、突進《とっしん》してくる馬を、ひらりひらりとかわしながら、見境《みさかい》なしに斬りまくった。翼以外の彼女の体に触《ふ》れられる者はおらず、翼に触れた者は容赦《ようしゃ》なく斬り裂かれた。腐《くさ》った汁《しる》が飛ぶ。切断《せつだん》された腕が飛ぶ。指が飛ぶ。馬の首が飛ぶ。斬り裂かれた服の断片《だんぺん》が舞い散る。ゾンビは波のように後から後から押し寄せ、空《むな》しく倒されてゆく。  戦いながら、デルは泣いた。ゾンビたちが好きだった。アゾが言ったように、村の暮らしには安らぎがあった。偽《いつわ》りの安らぎではあったが、少なくとも平和だった。今、自分の手でそれを破壊《はかい》しなくてはならない……。  三分ほどもかかって、戦闘《せんとう》は終了《しゅうりょう》した。まさに一方的だった。礼拝堂《れいはいどう》の中はばらばらになった膨大《ぼうだい》な量のゾンビの残骸《ざんがい》で埋《う》め尽くされ、壁《かべ》にも汚《きたな》い腐汁《ふじゅう》が飛び散って、すさまじい腐臭《ふしゅう》がしていた。まだぴくぴくと動いている者は、デルがとどめを刺して回った。彼女は頭から爪先《つまさき》まで腐汁を浴び、凄惨《せいさん》な有様だったが、かすり傷ひとつなかった。 「ふう……」  デルは汗《あせ》をぬぐい、涙《なみだ》をぬぐった。辛《つら》い作業だったが、やりとげた後はさっぱりした。こんなところにはいられない。ひどい悪臭で息が詰《つ》まる。さっさと出なければ。  彼女は祭壇《さいだん》に横たわっている少女に近づいた。少女は腐汁をほとんど浴びていない。このまま抱《だ》き上げたら、彼女をべとべとにしてしまうと気づき、祭壇にかかった布《ぬの》にくるんで持ち上げた。  少女を担《かつ》いで立ち去ろうとして、気配に気づいた。 「……行かないで」  懇願《こんがん》する声がした。見ると、倒れているアゾの体から黄色い光が煙《けむり》のように立ち昇《のぼ》っていた。それは空中で凝縮《ぎょうしゅく》し、半透明《はんとうめい》の人の姿《すがた》になった。長髪《ちょうはつ》を振り乱《みだ》した不細工な中年男だ。これがアゾの生前の姿なのか。 「お願い、モリイ……行かないで……」  今や霊体《れいたい》となったアゾは、足を使わず、すうっと滑《すべ》るように近づいてきた。手を差し伸《の》べ、デルの頬《ほお》に触れようとする。憑依《ひょうい》して新しい肉体を得るつもりなのだ。 「あたしを見捨《みす》てないで……いっしょにいて……お願い……」  デルはため息をつき、冷たくつぶやいた。「うざったい」  そして「悪霊祓い《イクソシズム》」を唱えた。死霊《しりょう》を物質《ぶっしつ》界から永遠《えいえん》に消滅させる呪文《じゅもん》だ。アゾは顔を恐怖《きょうふ》で歪《ゆが》め、「ひい〜っ!?」と情《なさ》けない悲鳴を上げる。その姿は風に吹《ふ》かれたように揺《ゆ》らぎ、あっさりかき消えた。  デルは振り返りもせず、少女を担いで教会を後にした。  一|軒《けん》の家のベッドに少女を横たえると、教会に引き返した。目覚めた少女が村を嗅《か》ぎ回るかもしれないので、先手を打って証拠《しょうこ》を隠滅《いんめつ》するためだ。礼拝堂にたっぷり油を撒《ま》き、火をつける。  教会は派手《はで》に燃《も》え上がった。密閉《みっぺい》された礼拝堂の中は、巨大《きょだい》なかまどのような状態《じょうたい》のはずだ。今日は風は強くないし、教会の周囲に類焼するような建物も森もない。放っておけば何もかも燃えつきるだろう。  鐘楼《しょうろう》が崩れ落ち、鐘《かね》が落下して、があーんという派手な音を立てた。燃えるものがほとんど燃えてしまい、火勢《かせい》が弱まったのを見届《みとど》けて、デルは家に戻《もど》った。  井戸《いど》で水を何杯《なんばい》も汲《く》み、全身を入念に洗《あら》って、腐汁を落とした。お気に入りの黒い服はだめになってしまったので、白いブラウスと明るい青のスカートに換《か》えた。少女をおびえさせたくないので、翼《つばさ》は隠《かく》した。  さっぱりしてから部屋に入ると、少女がうめき、目を覚まそうとしていた。ベッドに歩み寄ったデルは、その時ようやく思い出した。この子が飛んでいる自分を見たと、アゾが言ったことを。  どれぐらいの距離《きょり》から見たのだろう。顔は見えただろうか。分からない。だが、黒い髪《かみ》だけでも見えていたとしたら、たとえ翼を隠していても、空飛ぶ魔獣《まじゅう》と目の前の少女が同一の存在《そんざい》だと気づく可能性《かのうせい》は高い。  別の姿になる必要がある。  少女は今にも目を開けそうだった。迷っている時間はない。デルはとっさに、自分がよく知ってるもうひとりの少女の顔を選んだ——記憶《きおく》に強烈《きょうれつ》に焼きついている顔を。  黒髪の少女は眼《め》を開き、自分を覗《のぞ》きこんでいる金髪の少女を見上げた。 「気がついた?」  デルが言うと、黒髪の少女はがばっと上半身を起こした。おびえた様子で、きょろきょろと室内を見回す。 「ここ、どこ?」 「村よ」  デルは無理して、本物のフレイヤのように微笑んでみせた。 「何て村?」  その答は用意していなかった。デルは即興《そっきょう》で答えた。 「ハドリー村」 「聞いたことない」 「でしょうね」 「何であたし、ここに?」 「森の中で倒れてたから、運んできたの」  黒髪の少女は不審《ふしん》そうな顔で、体に異常がなく、持ち物も盗《と》られていないのを確認《かくにん》した。顔をしかめ、くんくんと鼻を鳴らす。 「変な匂《にお》いがする」 「そう?」 「なんか、腐った肉みたいな……」少女は自分の体を見回し、服の袖についた小さな染みを見つけ、匂いを嗅《か》いだ。「これだ」  どうやら、かなり鼻がいいようだ。 「倒《たお》れた時に、泥《どろ》か何かついたのね」 「それに、木が焼けるような匂い……」 「さっき、かまどでお料理を焼いてたから」  自分でもわざとらしいと思う笑顔、わざとらしいと思う言い訳《わけ》だ。黒髪の少女は明らかに信じていない。ぎろりとデルをにらみつけた。何か怪《あや》しい素振《そぶ》りを見せたらすぐに攻撃《こうげき》してやるぞ、という雰囲気《ふんいき》だ。 「あんた誰《だれ》?」  もうデルは迷わない。「私はフレイヤ。あなたは?」 「あたしは……」  少女は言いよどんだ。その様子から、名乗りたくない事情《じじょう》があるのだな、とデルは直感した。家出してきたのか、あるいは誰かに追われているのか。  その瞬間、既視感《デジャ・ビュ》とともに、デルの心にいたずら心が湧《わ》いた。 「ちょっと待って」と手を上げてさえぎる。「当ててみせるわ。私、人の名前を当てるのが得意なの。あなたの雰囲気からすると、そうね……」  アゾがやったように、少女の体を上から下まで観察する。少女はまるで裸《はだか》を見られているように、ばつが悪そうに身を縮《ちぢ》めた。 「Dのつく名前よね。その黒い髪とか、いかにもDってイメージだものね。ディアナ? ドロレス? ドナ? デイジー?」  少女はきょとんとして、「何だ、こいつ?」という表情でデルを見つめている。 「違《ちが》うの? ああ、そうか。デルね!」 「いや、あの——」 「やっぱり!」デルは嬉《うれ》しそうに手を叩《たた》いた。「そうだと思った。よろしくね、デル」  その日から、金髪の少女�フレイヤ�と黒髪の少女�デル�の、奇妙《きみょう》な共同生活がはじまった。  黒髪の少女はどうしても本当の名を名乗りたくないらしく、�デル�と呼ばれることを素直《すなお》に受け入れた。もっとも、デルとは違い、自分に割《わ》り当てられた役割《やくわり》を従順《じゅうじゅん》に演《えん》じることは断固《だんこ》として拒否《きょひ》した。 「あんたはいったい何者なんだ?」 「どうなってんだよ、この村は?」 「何で誰もいないんだ?」  そんな質問《しつもん》を頻繁《ひんぱん》にぶつけてくる。それに対し、デルはアゾをまね、徹底《てってい》してはぐらかした。 「フレイヤよ」 「だから言ったでしょ? ハドリー村よ」 「誰もいない? 変なこと言うのね。村の人ならいっぱいいるじゃない」  黒髪《くろかみ》の少女はまた、村の近くで見かけた怪物《かいぶつ》についても訊《たず》ねた。女のような姿《すがた》で、真っ黒な四|枚《まい》の翼《つばさ》を持ち、空を飛ぶ生きもの——デルは「さあねえ。そんなの見たことないわ」で押《お》し通した。  毎日、�フレイヤ�は�デル�を連れて、無人の村を散歩する。時おり、空中に向かって会釈《えしゃく》をし、「おはようございます、メーソンさん」「ああ、リーナ、いいお天気ね」などと言う。見えない馬車をよけたり、見えない犬の頭を撫《な》でたりもする。そのたびに�デル�がぎょっとした顔をするのを見るのが楽しい。人をからかうのは面白《おもしろ》い。  時には道端《みちばた》に立ち止まり、�村人�と長話をすることもある。見えない赤ん坊《ぼう》をあやしたり、聞こえないジョークで笑ったりしてみせる。�デル�はそんな�フレイヤ�の行動を、離れたところから気味悪そうに見ている。ちょくちょくデルは、「あなたはどう思う、デル?」などと話を振ってみるが、黒髪の少女はこわばった顔で黙《だま》っているだけだ。  狂《くる》ってもいないのに狂っているふりをするなんて、自分でも狂っていると思う。だが、デルはアゾが到達《とうたつ》しなかった境地——真の狂気の世界に、一種のあこがれを抱《いだ》いていた。自分の過去《かこ》を忘《わす》れ、現実《げんじつ》を認識《にんしき》できなくなるほどの狂気。この少女の前で狂気のように振る舞《ま》い続ければ、いつかその狂気が現実になるのではないかと思えた。  いずれ本当に自分がフレイヤだと信じるようになれば——姿だけでなく、心まで完璧《かんぺき》にフレイヤになりきれれば、フレイヤを殺した記憶《きおく》は失われ、重荷から解放《かいほう》されるのではないか。そんな希望を抱いていた。  馬鹿《ばか》げてると、自分でもよく分かってはいるのだが。 「何やってんだよ!? 誰もいないのに話しかけて!」  時おり、�デル�は我慢《がまん》しきれなくなって、そう怒鳴《どな》る。本物のデルとは違い、気の短い性格《せいかく》のようだ。デルは無視《むし》する。あくまで�フレイヤ�として、村人が実在《じつざい》するかのように振る舞い続ける。�デル�の困惑《こんわく》が手に取るように分かる。この金髪《きんぱつ》の少女は頭がおかしいのか、それとも本当に幽霊《ゆうれい》が見えているのかと訝《いぶか》り、気味悪がっているのだ。  それでも村を出て行こうとしないのは、他《ほか》に行くあてがないからだろう。やはり誰かに追われているのだろうか。それに彼女は好奇心《こうきしん》旺盛《おうせい》だ。この村の謎《なぞ》を解《と》くまでは去りたくないという想《おも》いもあるのだろう。  村に来て三日目の夕食の時、�デル�は「教会の焼け跡《あと》を見てきた」と言い出した。焼け跡で何十体もの骨《ほね》を見つけたというのだ。「何があったんだ?」と激《はげ》しく詰問《きつもん》され、「本当のことを言わないとひどい目に遣《あ》わすぞ」と脅迫《きょうはく》されたが、デルはあくまでしらを切り通した。  暴力《ぼうりょく》による脅《おど》しなど、彼女は恐《おそ》れない。いざとなれば、こんな少女など一瞬《いっしゅん》で始末できるのだから。  それを考えるとぞくぞくした。本物のフレイヤを殺して血のシャワーを浴びた時の記憶が、またしてもフラッシュバックする。いっしょに村を歩きながら、デルは夢想《むそう》する。この少女を殺したらどんな感じがするだろう。やはりおぞましく、甘美《かんび》なのだろうか。  時おり、デルには分からなくなる。自分はもう狂っているのだろうか? 罪《つみ》もない少女の胸《むね》を刺《さ》すということ自体、正気ではできないことではないか。あの夜、自分はもう、名もなき狂気の神の信者になっていたのではないだろうか。  そうだとしても、きっと私自身には分からないに違いない、とデルは思った。狂っている者に、自分自身の狂気の度合いが客観的に判定《はんてい》できるはずもないからだ。では、「自分が狂っているかどうか分からない」と考えることは、正常《せいじょう》な証拠《しょうこ》なのか、狂っている証拠なのか?  考えれば考えるほど分からなくなる。  結局、�デル�との暮らしは、たった五日しか続かなかった。  その朝、デルは山に食料を調達しに出かけた。�デル�は料理が苦手らしく、二人分の食材を確保《かくほ》するのも、それを料理するのもデルの役目だった。暗黒魔法を使っているのを見られると困るので、�デル�はいつも村に残してきた。籠《かご》を持ち歩き、魚や鳥だけでなく、山菜も集めた。  村から歩いて二〇分ほどのところに、森に囲まれた小さな滝があった。そこがデルのお気に入りの場所だ。滝壷《たきつぼ》の澄《す》んだ水の中には、たいてい川魚が何匹《なんびき》かいる。それを獲《と》って、今夜の昼と夜のおかずにするつもりだった。  いつものように浅瀬《あさせ》に立って水中を覗《のぞ》きこみ、魚を物色していると、対岸の茂《しげ》みががさがさと音を立てた。猪《いのしし》でもいるのだろうか、とデルは思った。だったら今夜のおかずは猪の肉に変更《へんこう》してもいい……。  茂みから現《あら》われたのは猪ではなく、ぼろぼろの服に毛皮のチョッキをまとった、人相の悪い男たちだった。全部で四人。ろくに風呂《ふろ》に入っていないらしく、顔は垢《あか》と泥《どろ》で薄汚《うすよご》れている。デルは驚《おどろ》き、思い出した。このあたりには山賊《さんぞく》がいると、アゾが言っていたことを。 「これはこれは」  思いがけない美少女との遭遇《そうぐう》に、男たちは顔をにやつかせていた。 「かわいいお嬢《じょう》さんがこんな山の中で何やってんのかなあ?」 「ずいぶん不用心だよなあ」 「悪い奴《やつ》らに襲《おそ》われても知らないぜえ」  男たちは下品な笑《え》みを浮《う》かべ、水をはねちらかし、浅瀬を渡《わた》って近づいてくる。手には剣《けん》やウォーハンマーを握《にぎ》っており、逃げようとしたら殺すぞと態度《たいど》で威嚇《いかく》していた。その顔に浮かぶぎらぎらした欲望《よくぼう》。顔や服装《ふくそう》は違っていても、その表情《ひょうじょう》にはあまりにも見覚えがあった。  デルは逃げられなかった。時空を越《こ》えて五年前の世界から現われたような、男たちの唐突《とうとつ》な出現《しゅつげん》に、不意を打たれ、立ちすくんでいた。強烈《きょうれつ》な既視感《デジャ・ビュ》が襲ってくる。男たちは何か喋《しゃべ》っていたが、もうデルの耳には届《とど》かなかった。彼女は八|歳《さい》の頃《ころ》に引き戻されていた。  男たちの汚れた手がぐんぐん近づいてくるのを、恐怖《きょうふ》に震《ふる》えながら見つめていた。先頭の男が顔を近づけてくる。あの嫌《いや》らしい笑みが視界《しかい》いっぱいに広がってゆく。フラッシュバックが起きる。これから何が起きるか知っている。私の体に群《むら》がる手。おぞましい感触《かんしょく》……。  嫌《いや》だ!  最初の男の手が肩《かた》に触《ふ》れた瞬間《しゅんかん》、デルは耐《た》えられなくなり、絶叫《ぜっきょう》していた。  それを目にした者がいたとしたら、一瞬、少女の周囲で空気が陽炎《かげろう》のように揺《ゆ》れたのが見えたはずである。陽炎は瞬時に膨張《ぼうちょう》し、大音響《だいおんきょう》とともに、滝壷の水全体が爆発《ばくはつ》したように激しく飛び散った。膨大な量の水しぶきが真っ白なカーテンとなって、少女と男たちの姿《すがた》を覆《おお》い隠《かく》す。周囲の樹々《きぎ》の葉が、突然の竜巻《たつまき》にでも遭《あ》ったかのように激しく舞《ま》い散った。  水しぶきがおさまると、大量の木の葉と小枝《こえだ》が雪のように降《ふ》る中、立っているのはデルだけだった。黒い翼《つばさ》を持つ魔獣《まじゅう》の姿に戻っていた。感情の激《はげ》しい乱《みだ》れで変身が解けたのだ。その周囲の水面には、衝撃《しょうげき》で死んだたくさんの魚たちとともに、四人の男がぷかぷかと浮かんでいた。  男の一人がうめきながら体を起こそうとしていた。「|力の爆発《フォース・イクスプロージョン》」の直撃を受けて生きているとは、運がいい。デルは容赦《ようしゃ》しない。大股《おおまた》で歩み寄り、下の一|対《つい》の翼の先端《せんたん》で、男の腹《はら》を貫《つらぬ》く。男は短くうめき、動かなくなった。デルは素早《すばや》く翼を引き抜《ぬ》くと、先端を水に浸《ひた》し、さっと振《ふ》るって、汚《けが》らわしい血を洗《あら》い落とした。 「ふっ!」  いい気分だった。  そこに立ちつくしたまま、酔《よ》ったようなとろんとした眼《め》で、自分の手を見つめる。五年前のトラウマが、解消されないまでも、かなり軽くなったのを感じた。五年前にこの力があれば、と思う。あの男どもをずたずたにしてやったのに。  思わず笑みが洩《も》れる。これはおぞましい力だ。まさに悪魔の力だ。しかし、素晴らしいカだ。もうどんな暴力《ぼうりょく》にも傷《きず》つけられることはないのだ。彼女は初めて、自分が魔獣になったことを嬉《うれ》しく思った。  彼女が声を上げて笑おうとしたその時—— 「やっぱりね」  降ってきた声に驚いて、振り仰《あお》いだ。滝の上の岩場に、あの黒髪《くろかみ》の少女がうずくまり、どこか悲しげな顔でこちらを見下ろしていた。 「あんたが、あいつだったんだ……」  デルは動揺《どうよう》した。尾《つ》けられていたのか。無論《むろん》、こうなることは予想していた。少女がいくら鈍感《どんかん》でも、いずれ�フレイヤ�の正体に気づかないはずがないと思っていた。しかし、こんなに突然とは……。  少女の次の言葉は予想がついた。「あんた何者?」だ。もうごまかせない。どう答えればいい? ありのままを話すのか。それでどうなる。彼女の同情を得るつもりか。いや、私は同情なんか欲《ほっ》していない。憐《あわ》れみなど、みじめになるだけだ。  ならば望むのは殺戮《さつりく》か。秘密《ひみつ》を知った少女を口封《くちふう》じに殺すことか。それも違《ちが》う気がした。殺したらどうなるか夢想《むそう》したことはあっても、今、そうしたいと思わない。何日も暮らして、情が移《うつ》ってきていた。殺したくない。  欲望に忠実《ちゅうじつ》に生きよとファラリスは教えている。だが今、自分がどうしたいのか、デルにはさっぱり分からなかった。ただそこに立ちつくし、「あんた何者?」という質問が降ってくるのを待っていた。  だが、少女の口にした言葉は、彼女の意表を突《つ》いていた。 「……誰に創《つく》られた?」 「え?」 「言え! お前は誰に創られた!?」少女は語気を荒《あら》くした。「海賊《かいぞく》ギルドか!? 『死神』か!? それともザーンかどこかの魔術師《まじゅつし》が実験に成功したのか!? 創った奴《やつ》がいるだろう! 言え!」  どう答えていいのか分からない。デルがとまどい、沈黙《ちんもく》していると、黒髪の少女は見る見る興奮《こうふん》してきた。 「言わないのなら!」少女は叫んだ。「力ずくでも言わせてやる!」  少女は変身した。  デルは驚《おどろ》きに打たれた。少女の顔が茶色い毛で覆《おお》われたかと思うと、ほとんど一瞬で狼《おおかみ》の顔に変わった。耳がぴんと立ち、首の周囲にはたてがみのように緑色の葉が生える。うずくまっていた体も、すっとプロポーションが変化し、四足|獣《じゅう》のそれになった。ズボンが裂《さ》け、毛に覆われた後脚《うしろあし》と尻尾《しっぽ》が現《あら》われる。  狼は跳躍《ちょうやく》した。高低差を利用し、勢《いきお》いをつけた体当たりを仕掛《しか》けてくる。デルはとっさに四枚の翼を前で閉じ、攻撃《こうげき》を受け止めた。狼ははじき返されて水中に落ちたが、すぐに体勢《たいせい》を立て直し、飛びかかってきた。  デルはどうしていいか分からない。狼の牙《きば》を翼で受け流すのが精《せい》いっぱいだ。激情《げきじょう》に流されたがむしゃらな攻撃に、力というより心理的に押され、後ずさりする。浅瀬《あさせ》に尻餅《しりもち》をついた。狼は覆いかぶさってくる。  どうすればいい? 攻撃してくるのは敵? だから殺す? 理屈《りくつ》ではそうすべきかもしれない。だが、デルはそんな理屈に納得《なっとく》しなかった。論理では割り切れない感情が、殺してはいけないと言っている。さっきの男たちと遠い、この魔獣《まじゅう》には憎《にく》しみが湧《わ》かない。何者かも分からない相手に、憎しみなど抱《いだ》けない。  狼は腕《うで》に噛《か》みついてきた。牙が肉に食いこみ、苦痛《くつう》が走る。考えろ。この子は何者だ? 何と言っていた? 「お前は誰に創られた?」——彼女は誰かに創られたのだ。誰に? すぐに答はひらめいた。海賊ギルド、「死神」、ザーン。彼女はそのどの勢力にも属《ぞく》さない。簡単《かんたん》な消去法。 「殺せばいい」デルは苦痛に耐《た》えながら言った。「私は……いつ死んでもいい……でも、あなたはいいの?……私を殺すことに意味があるの?」  狼の顎《あご》の力がわずかに緩《ゆる》んだ。緑色の眼が、不思議そうにデルを見下ろす。 「衝動《しょうどう》にかられて無意味に人を殺すのは、愚か者のすること。人の命を奪《うば》うのは重大なこと。だからこそ、殺しには意味がなくてはならない。大きな目的のためにしか殺してはいけない——ジェノアはそう教えなかった?」  狼はたじろぎ、口を離《はな》した。その姿《すがた》が黒髪の少女に戻る。デルの上に馬乗りになったまま、手足を使ってしっかりと押さえこんでいる。その眼には、疑《うたが》いととまどいの色が浮かんでいた。デルは全身の力を抜き、翼もひっこめて、抵抗《ていこう》の意思がないことを示《しめ》した。 「お前……ジェノア様を知ってるのか?」  デルはうなずく。「彼は私の……そう、師匠のような人。彼から誘われて暗黒司祭《ダークプリースト》になったんだもの」  少女はまだ疑いを捨てきれない。デルは彼女の体を見つめ、 「『闇の庭《ガーデン・オブ・ダークネス》』でしょ? 噂《うわさ》は聞いたことある。ジェノアの下で働いてるのね」 「お前は誰に……?」 「誰に創られたのでもない。私は自分で魔獣になったの」 「自分で!?」 「ええ」デルは静かに眼を閉じた。「自分の意思で——好きな男の子を救うために。これ以外に方法がなかったから」  デルは打ち明けた。一部の固有名詞は慎重《しんちょう》に隠《かく》したが、それ以外のすべてを話した。愛する少年のこと。「悪魔のエッセンス」のこと。自分が殺した少女のこと。ゾンビの村で出会ったアンデッドのこと。ずっと狂気のふりをしていたこと。 「自分で……」  黒髪の少女は呆然《ぼうぜん》となっていた。創られた我が身のことを考えているのか。生まれた時からずっと魔獣だというのは、どんな気分のものなのか。出生を呪《のろ》ったこともあるだろう。普通《ふつう》の人間として生まれたかったという想《おも》いもあるのかもしれない。自分から望んで魔獣になる者がいるなど、想像《そうぞう》もしていなかったはずだ。  やがて少女は口を開いた。 「後悔《こうかい》、してないの?」  その質問《しつもん》もデルには意外だった。この三週間、ずっと様々な自問自答をしてきたが、その質問だけは思いつかなかった。  考えてみた。私は後悔してる? あの選択《せんたく》が間違《まちが》ってたと思ってる? サーラがあのままずっと苦しみ続けた方がよかったと思ってる?  いや違う。罪《つみ》を犯《おか》すことをためらって、サーラを救えなかったなら、それこそ後悔していたはず。 「……いいえ」彼女は静かに答えた。「後悔はしてない。また同じ状況になったら、同じことをする。彼を助けるためなら、何でもする」 「はあ……」  少女は感嘆《かんたん》のため息をついた。 「よく分かんない——そこまで人を好きになれるもんなの?」 「恋をしたこと、ないの?」 「好きな人ならいる。ジェノア様」少女は色黒の顔ではにかんだ。「あの人は大好き。尊敬《そんけい》してる。すごく偉大《いだい》なお方——でも、恋とはちょっと違う気がする」 「分かるわ」 「そう?」 「ええ。ジェノアの言うことは、確《たし》かに正しい」  さっき引用したジェノアの言葉を思い出す。「大きな目的のためにしか殺してはいけない」——それは決して正義《せいぎ》の思想ではない。ジェノアはむしろ悪を標榜《ひょうぼう》している。大きな目的の達成のために必要なら、どれほど犠牲《ぎせい》を出してもよいと論じている。彼が嫌うのは、自分を「正義」などと呼び、謀略《ぼうりゃく》や殺戮《さつりく》を正当化することだ。彼は決して自分を正当化しない。悪であることを自覚しているがゆえに、「正義」よりも効率《こうりつ》よく問題を解決《かいけつ》できると信じている。  考えてみれば、自分のしたことはまさにそうではないか。サーラを救うという大きな目的のために、人を殺した。それは決して正義ではありえない。だが、ジェノアの標榜する論理——悪の論理からすれば、正しい決断《けつだん》だったのだ。 「彼は確かに偉大な人ね」 「でしょ!?」 「ええ。いろんな意味で尊敬でさそう」 「そうなの! 尊敬できちゃうのよ!」  少女は嬉《うれ》しそうに顔を輝《かがや》かせた。いつの間にか二人は敵意《てきい》を忘《わす》れ、友人のように語り合っていた。  悪の論理からすれば、二人が殺し合う理由などないのだから。 「そうなんだよね、あたし、好きなんだよね、ジェノア様」少女はしみじみと言った。「叱《しか》る時はすごくおっかないけどさ、あたしたちのこと愛してくれてるって分かるし。ちょっとしたことで喧嘩《けんか》して、かっとして思わず飛び出してきちゃったけど、やっぱ会えないと寂《さび》しいよ」  笑って肩《かた》をすくめ、 「まあ、戻ったらこっぴどくお仕置きされるだろうけどね」 「好きな人と会えるのはいいことよ」 「うん、そうだね。きっとそうだ。あんたがその男の子のために魔獣になったように、あたしはきっと、ジェノア様のために生まれたんだ」  少女は立ち上がった。 「決めた。ドレックノールに帰るよ」 「ここから近いの、ドレックノール?」  少女は目を丸くした。「ここがどこかも知らないの?」 「夢中《むちゅう》で飛んできたから……」 「ドレックノールから北に歩いて四日ほどのところだよ」  そんなに飛んだのか、とデルは驚《おどろ》いた。 「あなた、名前は?」 「あっ、ごめん、言えないんだ」少女は手を振った。「仲間同士でも暗号名で呼び合ってるぐらいでさ。まして本当の名前なんて……」 「ああ、そうね。外部には秘密《ひみつ》なのね」 「あっ、でもさ!」少女は嬉しそうに、ぱちんと手を叩《たた》いた。「あんたがあたしらの仲間になってくれるなら、教えてあげられるよ。どう?」  デルは笑った。 「少し考えさせて」  名前も知らないまま少女と別れてから、デルは無人の村を去り、何日も放浪した。翼《つばさ》を隠《かく》し、いくつもの村や町を渡《わた》り歩いた。村の無人の家から持ち出した金が少しだがあったので、宿にも食べ物にも不自由しなかった。  人里に出たら視線《しせん》に耐《た》えられないだろう、と思っていたのが嘘のようだった。今の彼女は、誰かに見つめられても糾弾《きゅうだん》されているように感じない。過去《かこ》の罪《つみ》が消えたわけではない。今でもそれは心に重くのしかかってくる。きっと死ぬまでこの重荷からは逃《のが》れられないだろう。しかし、我《わ》が身を恥じる気持ちは薄《うす》れていた。  なぜなら、誇《ほこ》りが生まれたからだ。私のしたことは悪だ。重い罪だ。だからこんなに苦しんでいる。だが、それがどうした。あれは私にとって正しい選択《せんたく》だった。どんなに苦しくても、あれは私が私であるために耐えねばならない試練だった。だから、もう恥じない。苦しいことも含《ふく》めて、私の誇りだから。  ある日の夕刻《ゆうこく》、街道《かいどう》の脇《わき》にある切株に腰《こし》を下ろし、自分の手を見つめていた。おぞましい力を秘めた肉体。その気になれば大量殺戮も可能《かのう》な悪魔の力。だが、そんなのは愚《おろ》かな行為《こうい》だ。意味がない。この力を振《ふ》るうには、力の大きさにふさわしい、大きな目的がなければならない。何に使えばいいのか。  ジェノアなら教えてくれるだろうか。  考えれば考えるほど、ジェノアのところに行くべきだと思えてきた。他に行くところなど思いつかない。目的もなしに生きるのは、もう嫌《いや》だった。悪でもいい、生きる指標が欲《ほ》しかった。それにあの少女の属《ぞく》する「闇の庭」なら、この姿《すがた》を偏見《へんけん》なしに受け入れてくれるはずだ。  あの少女に、ジェノアと接触《せっしょく》する方法を訊《き》くのを忘れていた。まあいい、ドレックノールに行って、訊《たず》ねて回ればいいだろう。デルとしての姿でうろつき回れば、ジェノアの方から興味《きょうみ》を抱《いだ》いて接触《せっしょく》してくるかもしれない。  ジェノアの美しい顔が浮《う》かぶ。ふと、思った。彼を愛することができるだろうか。彼なら、私の中のこのサーラへの想《おも》いを、忘れさせてくれるだろうか。  分からない。行ってみなければ。  陽《ひ》が落ち、いい具合にあたりは暗くなってきた。空を飛んでも目立つまい。黒い翼は闇《やみ》にまぎれる。闇は私の生きる世界だ。これからずっと。  彼女は翼を広げると、力強くはばたき、暗い夜空に舞《ま》い上がった。 [#改ページ]    あとがき  本書は二〇〇六年夏に完結した <サーラの冒険> シリーズの外伝的《がいでんてぎ》な中短編を集めたものです。  各作品の成立の由来《ゆらい》や、その裏話を、少しばかり語りたいと思います。 ●「時の果《は》てまでこの歌を」  以前、『西部諸国《せいぶしょこく》シアター㈪ 熱血《ねっけつ》爆風《ばくふう》!プリンセス』(富士見《ふじみ》ドラゴンブック)に収録《しゅうろく》されていた中編の再録です。  一九九六年から九七年にかけて『ドラゴンマガジン』に連載《れんさい》されていた <西部諸国シアター> は、読者から寄せられたプロットを基《もと》に、僕《ぼく》が小説を書くという企画。もちろん読者の書いた案そのままではなく、面白くなるよう、いろんなアレンジを加えていますが。  このプロットは照屋剛さんから寄せられたプロットが原案です。ハガキ何校にもびっしりと書きこまれていました。混乱していた部分を整理《せいり》し、細部をいろいろアレンジしたものの、話の大筋《おおすじ》はあまりいじっていません。歌姫《うたひめ》アルシャナのキャラクターもほぼ原案通りです。  ちなみにキャスリーンの髪《かみ》がたんばぽ色というのは、もちろん、タイムトラベルものの名作、ロバート・F・ヤングの「たんほぽ娘《むすめ》」へのオマージュです。  タイムトラベルものというのは、 <ソード・ワールド> では珍《めずら》しいですが、SFやファンタジーの世界ではありふれたもので、あまり新味はありません。にもかかわらず、毎月何百枚も来ていたハガキの中から、僕がこの案を採用したのは、クライマックスの決闘《けっとう》シーンに思わず心|躍《おど》ってしまったからです。  この作品を書いた時点では、 <サーラ> 四巻の刊行から三年経っていましたが、五巻の冒頭の場面を書きかけたままストップしていました。構想はできていたのですが、五巻のあとがきでも述《の》べたように、結末《けつまつ》が分かっているだけに書く気が起こらなかったのです。  書きかけだった五巻冒頭の場面というのは、サーラとデルがザーンの空中庭園に忍《しの》びこむ話で、これはのちに独立した短編として発表しました。『へっぽこ冒険者とイオドの宝』(富士見ファンタジア文庫)に収録した「奪《うば》うことあたわぬ宝」がそれです。  この「時の果てまでこの歌を」の中で、未来のデルが「覚えてる? この庭園に忍びこんだ時のこと」と言っていますが、実はこの台詞《せりふ》を書いた時点で、すでにその場面を書いてしまっていたのです。  つまり照屋さんのアイデアは、ジグソーパズルのピースのように、僕の構想にピタリとはまったわけです。この話でサーラとデルの未来を先に描《えが》いておいたおかげで、五巻のラストにスムーズに結びつけることができました。五巻を読まれた多くの読者の方も、「まさか本当に『時の果てまでこの歌を』につなげるつもり?」と不安になってやきもきされたことと思います。  今回、再録するにあたって、編集さんから、最後の一行を削除《さくじょ》してはどうかと言われました。小坂《こさか》水澄《みすみ》の「SINGING QUEEN」という歌は今の読者は知らないから、というのです。僕は笑って「いや、今の読者どころか、当時の読者だって知りません」と答えました。だって、『アイドル天使ようこそようこ』というマイナーなアニメの挿入歌《そうにゅうか》ですから。  でも、大好きなんですよね、この歌。歌詞をそのまま引用するとJASRACにお金を払わなきゃいけないので避《さ》けますが、私にできることは人々を勇気づけるために歌うことだけ、生きていることや愛することの素晴《すば》らしさを伝えるため、歌の力を信じて歌い続ける……という、まさにこの小説のテーマにぴったりの歌だったんです。  この歌、結婚式で披露宴の時に流そうと思ってたんですが、妻《つま》に猛反対《もうはんたい》されました。「披露宴《ひろうえん》でアニソン流すなんて非常識やで!」と強硬《きょうこう》に主張され、「いや、言われなければみんなアニソンだなんて気がつかないから」と言っても通らず、やむなく断念《だんねん》しました。  ところが披露宴の当日、新郎《しんろう》新婦《しんぷ》入場の場面でかかった歌(式場の人が選んだもの)を聞いて、僕は愕然《がくせん》となりました。  これは『アラジン」のテーマ! (アニソンやー! 『アラジン』は立派なアニメ主題歌やー!)  と、新婦と腕《うで》を組んで顔はニコ二コしながらも、心の中ではひきつっておりました(笑)。 ●「リゼットの冒険」  六巻の第一章、マンティコア退治《たいじ》の場面の裏話です。  この話も「奪うことあたわぬ宝」と同様、最初は六巻の冒頭のエピソードとして書きかけたもの。独立した短編にした方がいいと思い、構成を変更《へんこう》して、リゼットというキャラクターを掘り下げることにしました。  六巻でノアが、サーラが「少なくとも三人の異性《いせい》に愛される」と言っていますが、その一人がリゼットなのです。あとの二人は言わずもがな。  告白《こくはく》しますが、僕はこういう一人称が「ボク」「オレ」のボーイッシュな女の子に弱いんです。『熱血爆風!プリンセス』のキャレリンとか、『妖魔夜行《ようまやこう》/戦慄《せんりつ》のミレニアム』(角川スニーカー文庫)のガンチェリーとか。現実にこういう喋《しゃべ》り方をされたらむかつくかもしれませんが(笑)、フィクションの中では「ボクっ子」「オレ娘」って魅力的《みりょくてき》ですよね。  まあ、実際には自分を「オレ」という女の子なんてめったにいないよなあ……と思ってたら、妻に「私、高校の頃は『オレ』って言うてたよ」と告白されてびっくり。お前、「オレ娘」やったんかい!? ●「死者の村の少女」  この短編集のための書き下ろし。五巻の直後の話です。  書き下ろしの話をどうするか、ずいぶん悩《なや》みました。ミスリルやフェニックスの過去《かこ》の話にするという案もあったんですが、どうもそれほど面白い話になりそうにない。シリーズの最後を飾《かざ》るんだから、とびきりのすごい話にしたい。  いろいろ考えているうち、デルというキャラクターの内面をあまり描いていないことに気がつきました。いつもサーラからの視点《してん》ばかりで、デルが何を考えているのか、ほとんど描写《びょうしゃ》していなかった。だからこの際、デルを主人公にして、徹底的《てっていてき》に内面を描いてみようと思ったわけです。  実は僕は「邪悪《じゃあく》な美少女」というやつも大好きです。これまでいろんなタイプの邪悪な美少女を出しました。『神は沈黙《ちんもく》せず』(角川書店)にちらっと出てくる「ひよめちゃん」、短編「屋上にいるもの」の超能力少女、「時分割《じぶんかつ》の地獄《じごく》」のゆうな、「地獄はここに」の絢。 <ソード・ワールド> のシリーズでも、「ジェライラの鎧《よろい》」のスキュラ、「マンドレイクの館《やかた》」のビリティス、『やっぱりヒーローになりたい!』(富士見ファンタジア文庫)のナイトシンガーやグレイネイルなど。かわいい顔で残酷《ざんこく》なことを平然《へいぜん》とやってのけるキャラクターを描くのが好きなんです。  アニメでは『明日のナージャ』のローズマリーが大好きでした。最近では『ブラックラグーン』のグレーテルが死ぬ場面で感動して泣きました。死んだのが悲しかったんじゃなく、あまりに見事《みごと》な死に方だったもので。  まあ、こういう女の子も、現実にいたら近づきたくないですけどね。  だもんでこの話では、デルの邪悪ぶりを思う存分《ぞんぶん》描きました。よく「愛と正義《せいぎ》」と言いますが、実は「愛と悪」というのもけっこう相性《あいしょう》がいいものだなあと、あらためて実感しました。  幻《まぼろし》超二《ちょうじ》さんの表紙イラストも力が入っていて、素晴《すば》らしいものです。特にデルの表情がものすごく邪悪そうなのがたまりません。ここまで深くキャラクターを愛してくださっているのは、作者としても光栄《こうえい》です。  最後に。  このシリーズを愛してくださったみなさん、ありがとうございます。サーラたちの冒険はこれで終わりますが、別の世界で、新しいキャラクターの冒険を描くことになっています。そちらもサーラやデルたちと同様《どうよう》、愛してくださるようお願いします。  またお会いしましょう。 [#改ページ]    キャラクター・データ  「時の果《は》てまでこの歌を」 「虎《とら》の涙《なみだ》」ダルシュ(人間、男、59歳《さい》) 器用度《きようど》14(+2) 敏捷度《びんしょうど》13(+2) 知力《ちりょく》18(+3) 筋力《きんりょく》10(+1) 生命力11(+1) 精神力《せいしんりょく》15(+2) 冒険者技能《ぼうけんしゃぎのう》 シーフ6、セージ6 冒険者レベル 6 生命力抵抗力8 精神力抵抗力8  武器《ぶき》:ダガー(必要筋力5) 攻撃力《こうげきりょく》8 打撃力5 追加ダメージ7   盾《たて》:なし         回避力《かいひりょく》8   鎧《よろい》:クロース(必要筋力3)防御力《ぼうぎょりょく》5      ダメージ減少《げんしょう》6  言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語《かいこだいご》、東方語、エルフ語、ゴブリン語     (読解)共通語、下位古代語、東方語 アルド・シータ(人間、男、40歳) 器用度18(+3) 敏捷度15(+2) 知力14(+2) 筋力22(+3) 生命力19(+3) 精神力15(+2) 冒険者技能 シーフ6、セージ4 冒険者レベル 6 生命力抵抗力9 精神力抵抗力8  武器:ショートソード(必要筋力8)攻撃力9 打撃力8 追加ダメージ9   盾:なし            回避《かいひ》力8   鎧:ハード・レザー(必要筋力7)防御力7      ダメージ減少6  言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、東方語、ドワーフ語     (読解)共通語、西方語、下位古代語  アルシャナ(人間、女、17歳) 器用度12(+2) 敏捷度14(+2) 知力14(+2) 筋力11(+1) 生命力13(+2) 精神力18(+3) 冒険者技能 バード5 冒険者レベル 5 生命力抵抗力7 精神力抵抗力8  武器:素手         攻撃力9 打撃力8 追加ダメージ9   盾:なし         回避《かいひ》力0   鎧:クロース(必要筋力3)防御力3      ダメージ減少5  呪歌《じゅか》:(基準値8)ノスタルジィ、ピース、ヒーリング、レクイエム、レストア・メンタルパワー  言語:(会話)共通語、西方語、東方語、下位古代語、エルフ語、ドワーフ語、マーマン語     (読文)共通語、西方語 キャスリーン・スカイ(ファントム、女、?歳)  モンスター・レベル=5  知名度=14  敏捷度=24  移動速度=12  出現数=単独《たんどく》  出現|頻度《ひんど》=きわめてまれ  知能=人間なみ  反応=中立  攻撃点=一  打撃点=一  回避点=一  防御点=一  生命点/抵抗値=一/一  精神点/抵抗値=一/13(6)  特殊《とくしゅ》能力=憑依《ひょうい》(抵抗の目標値12)       ほとんどの攻撃が無効       暗黒|魔法《まほう》5レベル(憑依時に使用可能)  棲息地《せいそくち》=さまざま  言語=共通語、西方語、下位古代語、インプ語  知覚=魔法  ファントムの説明は、完全版ルールブック233ページを参照してください。通常のファントムと異なり、キャスリーンは時空の歪《ゆが》みに巻きこまれて死んだため、空間的に移動できるだけでなく、過去や未来へも移動する能力を持ちます。反面、現実世界の事象に干渉《かんしょう》する力は皆無《かいむ》に近く、ほとんどの者には彼女の存在すら知覚できません。 サーラ・パル(人間、男、24歳) 器用度20(+3) 敏捷度20(+3) 知力18(+3) 筋力14(+2) 生命力17(+2) 精神力15(+2) 冒険者技能 シーフ8、セージ4 冒険者レベル 8 生命力抵抗力10 精神力抵抗力10  武器:レイピア(必要筋力7)   攻撃力11 打撃力7 追加ダメージ10   盾:なし            回避力11   鎧:ハード・レザー(必要筋力7)防御力7      ダメージ減少8  言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、東方語、エルフ語     (読解)共通語、西方語、下位古代語 デル(ナイトフライヤー、女、24歳)  モンスター・レベル=8  知名度=一  敏捷度=22  移動速度22/40(空中)  出現数=単独  出現頻度=きわめてまれ  知能=人間なみ 反応=中立  攻撃点=翼《つばさ》×2:15(8)/翼×2:14(7)  打撃点=12×2/14×2  攻撃点=翼×2:15(8)/締《し》め×2:14(7)  打撃点=12×2/14×2  回避点=16(9)  防御点=11  生命点/抵抗値=17/17(10)  精神点/抵抗値=20/18(11)  特殊能力=暗黒魔法8レベル(魔法強度/魔力=18/11)       変身  棲息地=さまざま  言語=共通語 西方語、下位古代語、インプ語、ゴブリン語  知覚=五感(暗視《あんし》)  人間の肉体にデーモンの能力を移植して誕生《たんじょう》した存在《そんざい》で、背中《せなか》に翼長《よくちょう》2メートルに達する黒い翼が4枚《まい》あり、空を飛ぶことができます。  4枚の翼のうち、上の一対《いっつい》は縁《ふち》がノコギリのようになっており、下の一対は先端《せんたん》がドリルのようになっています。接近戦の際には、これらを使って1ラウンドに4回の攻撃ができます。上の一対の翼をラージシールドとして使えば回避点に+2されます。下の一対の翼は相手にからみつけて締めつけることができます。また、4枚の翼でマントのように全身を覆《おお》うと防御点に+5されます。  ただし、一回のラウンドには、翼はどれかひとつの使い方しか選択《せんたく》できません。翼を戦闘《せんとう》や防御に使用しているラウンドには飛行できません。  ナイトフライヤーは一度でも会ったことのある人物なら、そっくりに変身することができます。ただし、まねられるのは姿《すがた》や声だけで、記憶《きおく》や能力まではコピーできません。  人間に変身している際のデータは次の通り。 器用度17(+2) 敏捷度22(+3) 知力18(+3) 筋力12(+2) 生命力17(+2) 精神力20(+3) 冒険者技能 シーフ6、ダークプリースト(ファラリス)8、セージ4 冒険者レベル 8 生命力抵抗力9 精神力抵抗力11  武器:ダガー(必要筋力3)  攻撃力8 打撃力3 追加ダメージ8   盾:なし          回避力9   鎧:クロース(必要筋力3) 防御力3      ダメージ減少8  魔法:暗黒魔法(ファラリス)8レベル 魔力11  言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、インプ語、ゴブリン語     (読解)共通語、西方語、下位古代語  「リゼットの冒険《ぼうけん》」 リゼット・ハーシェル(人間、女、13歳) 器用度12(+2) 敏捷度13(+2) 知力10(+1) 筋力9(+1) 生命力10(+1) 精神力12(+2) 冒険者技能 なし 冒険者レベル なし 生命力抵抗力0 精神力抵抗力0  武器:木の棒(必要筋力4) 攻撃力0 打撃力4 追加ダメージ0   盾:なし         回避力0   鎧:クロース(必要筋力4)防御力1      ダメージ減少0  言語:(会話)共通語、西方語     (読解)西方語 サーラ・パル(人間、男、13歳) 器用度14(+2) 敏捷度13(+2) 知力13(+2) 筋力10(+1) 生命力12(+2) 精神力11(+1) 冒険者《ぼうけんしゃ》技能 シーフ4 冒険者レベル 4 生命力抵抗力6 精神力抵抗力5  武器:ダガー(必要筋力4)    攻撃力6 打撃力4 追加ダメージ5   盾《たて》:なし            回避力6   鎧:ハード・レザー(必要筋力5)防御力5      ダメージ減少4  言語:(会話)共通語、西方語     (読解)共通語 デイン・ザニミチュア(人間、男、27歳) 器用度15(+2) 敏捷度17(+2) 知力17(+2) 筋力12(+2) 生命力13(+2) 精神力19(+3) 冒険者技能 ファイター5、プリースト4(チャ=ザ)、セージ4 冒険者レベル 5 生命力抵抗力7 精神力抵抗力8  武器:レイピア(必要筋力12)   攻撃力7 打撃力12 追加ダメージ7   盾:バックラー(必要筋力1)  回避力8   鎧:ハード・レザー(必要筋力12)防御力12      ダメージ減少5  魔法:神聖魔法(チャ=ザ)4レベル 魔力6  言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、エルフ語、ゴブリン語     (読解)共通語、西方語、下位古代語 フェニックス(ハーフエルフ、女、?歳) 器用度18(+3) 敏捷度20(+3) 知力20(+3) 筋力12(+2) 生命力13(+2) 精神力15(+2) 冒険者技能 ソーサラー5、バード1、セージ2 冒険者レベル 5 生命力抵抗力7 精神力抵抗力7  武器:メイジ・スタッフ(必要筋力10)攻撃力1 打撃力15 追加ダメージ0   盾:なし             回避力0   鎧:ソフト・レザー(必要筋力7) 防御力7      ダメージ減少5  魔法:古代語魔法5レベル       魔力8  言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、上位古代語、エルフ語     (読解)共通語、西方語、下位古代語、上位古代語 ミスリル(エルフ、男、35歳) 器用度19(+3) 敏捷度21(+3) 知力18(+3) 筋力8(+1) 生命力9(+1) 精神力16(+2) 冒険者技能 シャーマン5 シーフ5 冒険者レベル 5 生命力抵抗力6 精神力抵抗力7  武器:ダガー(必要筋力4)    攻撃力8 打撃力4 追加ダメージ6   盾:なし            回避力8   鎧:ソフト・レザー(必要筋力4)防御力4      ダメージ減少5  魔法:精霊魔法5レベル       魔力8  言語:(会話)共通語、西方語、エルフ語、精霊語     (読解)共通語、西方語、エルフ語 レグディアナ(人間、女、20歳) 器用度19(+3) 敏捷度13(+2) 知力12(+2) 筋力21(+3) 生命力19(+3) 精神力14(+2) 冒険者技能 ファイター5 レンジャー5 冒険者レベル 5 生命力抵抗力8 精神力抵抗力7  武器:ヘビー・フレイル(必要筋力21)攻撃力7 打撃力31 追加ダメージ8   盾:なし             回避力7   鎧:プレート・メイル(必要筋力21)防御力26      ダメージ減少5  言語:(会話)共通語、西方語     (読解)共通語、西方語  「死者の村の少女」 デル(ナイトフライヤー、女、13歳)  モンスター・レベル=7  知名度=一  敏捷度=18  移動速度18/33(空中)  出現数=単独  出現頻度=きわめてまれ  知能=人間なみ 反応=中立  攻撃点=翼×2:13(6)/翼×2:12(5)  打撃点=10×2/12×2  攻撃点=翼×2:13(6)/締め×2:12(5)  打撃点=10×2/12×2  回避点=14(7)  防御点=10  生命点/抵抗値=14/16(9)  精神点/抵抗値=16/16(9)  特殊能力=暗黒魔法7レベル(魔法強度/魔力=16/9)       変身  棲息地=さまざま  言語=共通語 西方語  知覚=五感(暗視)  人間に変身している際のデータは次の通り。 器用度15(+2) 敏捷度18(+3) 知力13(+2) 筋力10(+1) 生命力14(+2) 精神力16(+2) 冒険者技能 シーフ4 ダークプリースト(ファラリス)7 冒険者レベル 7 生命力抵抗力9 精神力抵抗力9  武器:ダガー(必要筋力4)     攻撃力6 打撃力4 追加ダメージ5   盾:なし             回避力7   鎧:ソフト・レザー(必要筋力3) 防御力3      ダメージ減少7  魔法:暗黒魔法(ファラリス)7レベル 魔力9  言語:(会話)共通語、西方語     (読解)共通語、西方語 アゾ(ゴースト、男、?歳)  モンスター・レベル=5  知名度=14  敏捷度=14  移動速度=14  出現数=単独  出現頻度=まれ  知能=人間なみ  反応=中立  攻撃点=素手《すで》=12(5)  打撃点=8  回避点=13(6)  防御点=7  生命点/抵抗値=14/13(6)  精神点/抵抗値=20/14(7)  特殊能力=憑依(抵抗の目標値12)       暗黒魔法5レベル(魔法強度/魔力=14/7)       刃《は》のついた武器ではクリティカルしない       毒、病気に冒《おか》されない       不眠《ふみん》       治癒《ちゆ》魔法でダメージ  棲息地=さまざま  言語=共通語、西方語、インプ語  知覚=擬似《ぎじ》  ゴーストの説明は、完全版ルールブック233ページを参照してください。 ナイトシンガー(ワー・ウルフ・アルラウネ、女、12歳)  モンスター・レベル=6  知名度=一  敏捷度=16  移動速度=16/24(変身)  出現数=単独  出現頻度=きわめてまれ  知能=人間なみ 反応=中立  攻撃点=素手《すで》:13(6)  打撃点=8  攻撃点(変身時)=牙《きば》:13(6)  打撃点=12  回避点=14(7)  防御点=8  生命点/抵抗値=14/14(7)  精神点/抵抗値=4/15(8)  特殊能力=精霊魔法4レベル(魔法強度/魔力=12/5)、ノーム、ドライアードのみ       悲鳴(目標値13)1日に1回       精神的な攻撃は無効       変身後は通常武器無効  棲息地=さまざま  言語=共通語 西方語  知覚=五感(赤外視《せきがいし》)  ワー・ウルフの血で育てられたアルラウネです。普段《ふだん》は少女の姿ですが、草のような緑色のたてがみに覆《おお》われた狼《おおかみ》に変身できます。通常のワー・ウルフと異《こと》なり、変身は月齢《げつれい》に左右されることなく、自分の意志で行なえます。  アルラウネの能力である精霊魔法と悲鳴については、『ソード・ワールドRPG完全版』224ページ参照してください。 [#改ページ]   初 出  時の果《は》てまでこの歌を 西部諸国シアター㈪ 熱血爆風!プリンセス(富士見ドラゴンブック)  リゼットの冒険《ぼうけん》    ファンタジアバトルロイヤル2006年夏号  死者の村の少女    書下し [#改ページ] 底本 富士見ファンタジア文庫  ソード・ワールド短編集 死者《ししゃ》の村《むら》の少女《しょうじょ》 サーラの冒険 Extra  平成18年12月25日 初版発行  著者——山本《やまもと》弘《ひろし》